現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

気持ち整理4、論痴

続きまして、4、論痴を書いていきます。

その前に今までのやつのリンクを下に貼っておきます。

 

米津玄師「馬と鹿」MVの解釈と考察 - 現実と妄想のはざま(改)

 

気持ち整理1、論破 - 現実と妄想のはざま(改)

 

気持ち整理2、モラハラ - 現実と妄想のはざま(改)

 

気持ち整理3、アスペルガー - 現実と妄想のはざま(改)

 

 

まず、「論痴」とは何か?を書いていきます。

論痴とは造語で、正式には論感音痴のことを指しています。

参考にさせて頂いたのは、こちらのページから、です。

 

news.yahoo.co.jp

 

文章を抜き書きします。

 

ーーーー抜き書き

音痴と論痴

「この人、音程ズレているよね」

一緒に歌番組を観ていると、たまに妻がつぶやきます。

「真ん中の人は上手だけど、隣の人がたまにズレる」

私は音程がズレているか、まったくわかりませんのでスルーしていますが、妻はかまわず、そんなことを言うのです。「絶対音感」を持つ妻は、複数に重なった音でさえ聞きわけることができます。

「君の名は」のエンディングテーマを弾いてよと娘が言えば、譜面がなくても、「こんな感じかな」と即興で再現することができます。

音感というのは、音に対する感覚のことを指すようです。音の高さや長さ、音の色彩とかを認識できるスキルが高い、ということです。

音痴の私には、わからない世界です。

最近、私が気になっているのは、この「音感」ではなく「論感(ろんかん)」。妻が私と話をしていると、だいたい途中で話があさっての方向へ向かいます。

「あのさ、話の論点がズレているよね?」

そう言っても、妻は何のことだかさっぱりわからないようです。

「相談したいことはAだったはずなのに、いま話題がBになってる」

そう指摘しても、「そう? そうかな?」とよく理解できない様子。

「音程」のズレはすぐにわかっても、「論点」のズレはまったくわからないようです。「論感」がないのか。私と真逆です。妻は「音痴」ではなく「論痴(ろんち)」なのだろうか。

ーーーーここまで

 

結論を言うと、トップの人がこの「論痴」であったと私は判断しました。

ある意味仕方ないのかなと思うところもなきにしもあらず、なんですけど。

 

かなり簡単に言うと、

私たちが現実として感じて生きているこの物質世界と、それを内包するようにある意識世界と、更にそれらを内包する「存在世界」というものがあって。ここまでくるともう神さまや世界の領域になってくるのですが、トップの人は私が感じた限りですが、そこに軸足を置いているように見受けられた方だったからです。

 

でも人として生きてて普通?に会社も経営されてて、スピ某所のML内でも沢山の情報や議論の機会の提供やツールの創造など、色々なことをされていたので、まさか!とは思ったんですけど…この事実を認めるのに、約一年かかりました。

 

存在・意識世界と物質世界との間に明確な境界線があって、前者の言葉でいくら伝えようとしても物質世界の言葉で言わないと、私たちには何も伝わらなかったのだなということをやめてから思いました。

 

この方にそこまで求めるのはかなり酷なんだけど、それでも求めないことには存在・意識世界のことが何も分からないというジレンマがあったように今は思います。

 

 

一つ例を挙げると、前の記事でも少し書いた「存在の哲理」というものがあって、その中の「美の希求」という言葉は、存在・意識世界の言葉であって、物質世界から見ると、抽象的すぎて朧げにしかその意味を受け取れないと感じてきてました。

 

次元階層として言うなら、次元が違う言葉ということになります。

 

そこで次元階層を落として、物質世界の言葉として使うのなら、「美の希求」の「美」が何を指すのかというと、自分の勝手なイメージですが「機能美」がふさわしいのではないかと考えています。

 

美の項目をWikipediaで読んだ時に、「存在論的把握」に該当するのかなと思いました。

 

ーーーー抜き書き

存在論的把握 
美の概念は、この世界に具体的に存在する事物、また事象としての「美しいもの・こと」(独語:Das Schoene)と必然的に関わりを持つ。しかし、この「美の概念(存在)」とは何であるのか、人が経験し、ときに感動する「美しさ」の本質については、哲学史にあって異なる解釈がある。

二つの代表的な考え方があり、(1)美の存在は、事物や事象が備える固有の性質であるとする「存在論的把握」と、(2)美の存在は事物に帰属するのではなく、それを知覚し、認識する人間主観が、事物や事象に付与する性質であるとする「認識論的把握」がある。おおまかにいえば、前者(1)は古典ギリシア哲学以来優勢であった見解であり、後者(2)は近世以降に登場する哲学的見解である。

存在論的把握の代表的な論者は、プラトンアリストテレスプロティノスアウグスティヌストマス・アクィナスフリードリヒ・シェリングである。これにはさらに、(1)美の性質を部分の均整にもとめる方向と、(2)部分性を否定し斉一であることをもって美の根本規定とする方向という、まったく対立する態度があらわれる。

ただし美はまったく認識と離れて存在するものではない。すでにプラトンにおいて、美は愛すなわち認識の欲求的能力の志向的対象として把握されている(『饗宴』)。また美の性格を均整あるいは斉一に求める論も、認識への適合性に多くその論拠をおいている。トマスは美を究極には神に帰せられる属性とするが、「視覚に快いととらえられるものは美しいと呼ばれる」(『神学大全』)とし、その人間的認識能力とのかかわりを否定していない。

芸術家美学と呼ばれる画家や文人による美論も、おおくこうした方向によることが多い。レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、芸術家は自然の幾何学的構造を美というもっとも理想的な状態において再提示する能力を持つ幾何学者であり、そのことが彼をして対象のより正確な把握へと赴かせた。ホガースの美の理論は、線とその印象を追求することによって、素描の美的な効果について研究するとともに、美そのものの性質を線の形状から説明しようとした。

なおこうした、存在それ自体の性格として美を把握する方向は、多く他の価値概念と美が共通するないし同一であるとの論に帰着する。シェリングは美を客観的なものの絶対性としつつ、根本においては善や美と同一であるとする。これについては後節「#他の価値領域と美の関係」を参照。

ーーーーここまで

 

難しくなってきたのとあんまり細かく言えないっていうのとで、この項はここまで、としようと思います。