現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

フェチの話2、自戒も込めて

ゆえのです。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

 

引き続きフェチの話…です。なんか引きずってしまっています。

実を言うと、何で前回フェチの話を書いたかというと、

フェチの話 - 現実と妄想のはざま(改)

この記事の数日前に、Twitterのどっかで「手フェチ声フェチじゃない人は米津さんのファンじゃない!」みたいな主旨のツイートを読んたことがあって…ちょっとムカっ腹立ってたから、でした。

胸くそ悪かったので、どこの誰がどういう言葉で、とかは覚えてもいないんですけど、上記の主旨だったと私は受け取って、ちょうど私はそれに該当するので、後半で「すみませんねぇ!そうじゃなくって!」という気持ちで、いかにそうじゃないかをこと細かに書いたんですが、な〜んか気持ちが晴れなくて…モヤモヤしているので、何でなのかを考えてみようと思います。

 

 

前回の記事を書いてから最初に思ったのは、結局Twitterで@@フェチで言っている人たちって米津さんのことを1人の人間として見てないんだなぁっていうことを感じました。
自分の感じるフェチで“分断”させてしまっているというか、切り刻んでるっていうか…。その面でしか見てないっていうか。フェチのことを言っている瞬間には、総合的な1人の人間として観ることを全然してないみたいに見えました。

 

私も前回の記事を書いたように、フェチを感じる所はあるので人のこと言えないんですけど。でも自分のことで言うなら、私の持っている細腰&二の腕フェチっていうのは元々、2次元のキャラクターに感じていたことなんですよね。かなり前になりますけど、同人誌即売会にもよく行っていたことのある人間なんで。買い専門でしたが。

 

前回の記事を書くにあたって、その2次元のキャラクターに感じていたフェチを3次元の生きている人に当てはめてしまっていいものなのか?ということを考えたりもしました。

結局、罪悪感を持ちながらも書いちゃいましたが。

 

まず、1人の人として最大限の敬意を根底においてから、じゃないとダメな気がしました。結局フェチってのはその人の魅力の一部なだけだから、その情熱が本人(本体?)を凌駕して飲み込むことがあってはいけないんだということを考えたりもしました。

 

だから、その@@フェチだけの部分を切り取って対象の人を分断させて喜んでる人に「そうじゃない人はファンじゃない」とか言われたくないな。ということを書いたり思ったりできれば良かったんだなと思いました。

 

 

それと、基本的に女子会のノリでの女子トークなんだなぁということも思いました。私自身はそういった「女子トーク」に昔からあまりピンとこない方で、それに入れない自分って女でいる意味ある?とか過去に思い悩んだりもしてましたね。今は入れないもんはしょうがねぇと開き直ってますけど。

 

楽しいそうなんですよねー、やっぱ雰囲気的には。中身はどんだけ酷いかもしれなくても。

それに対するやっかみが全くないって言ったら嘘になりますしねぇ。

 


なので、完全にそれに水を指す形にはなると思いますけど、結局@@フェチってのは、1人の人間を手だけお化け、声だけお化け、色気だけお化けとして観る、ってことだと思うんで。

堂々とは主張しない方がいいものなんじゃないかなと思いました。罪悪感や浅ましさ、恥ずかしさを伴うべきものだと、私は考えています。

いじょ、持論でした。

 

あとフェチのことだけではなくて、先週の金曜日に米津さんの新曲CD発売の購入者特典として、ペーパーフレグランスカードが付くことが発表されてから、ちょっと前のニュースで「女子校のプールの水になりたい」ってのたまった弁護士の方と同等かそれ以上に凄いことを書いているツイートも見たことがあって、そういう“変態”的なことを書くのも自重した方がいいんじゃないかと私は思いました。それも、対象の人を“人間”として観ていないということだと思うので。

 

終わり。