現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

「PaleBlue」の考察の考察みたいなよもやま話

ゆえのです。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

 

米津さんの新曲「PaleBlue」の解釈と考察の記事を書いたら流石に精神エネルギーを使い果たして疲れたので、今日の更新はお休みしようと思ったんですが、書いたことを色々考えてたら止まらなくなってきてしまったので、吐き出していこうと思い記事を書きます。

 

考えていたこととは、「花」と「花束」の違いなんですけど記事の中で自分自身が無意識に区別しているような感じがあって、もっと明確にしてみると、「植え花」と「切り花」で分けて考えているんだなと分かりました。

 

前の記事で言うと、

男性側は「切り花」対応していて(沢山の器に水を入れる)

女性側は「植え花」対処をしている(根腐れするほど水が多いなら供給を止める、くれる人から離れる)

というか。

 

花束にするには切り花にすることが必要で、花束にした時点でそれが“枯れる”ことはもはや必然で…枯らさないためには花束にしないことが重要なんじゃない?ってことを考えたんですよね。

 

そうすると…1番の歌詞の「わたしあなたに恋をした 花束と一緒に」っていうのは、その恋は枯れる前提という意味になるかもしれないと思いました。これに気付く前は、恋をすることを花束に例えるとか、華やかで良い感じに受け止めていたんですけど、ガラッと印象が変わってしまいました。

そうすると、1番と2番でこの歌の中で二回恋をしているということなのかなとか、1番の歌詞での「恋」ってすっごい身もふたもないことを言うと、(今は歌詞だけを見てます)単に今までそんなに気にかけてなかったのにいざ別れるとなったら急に勿体無くなったっていう心の動きのことだけなのではないのか?とか思ってしまいました。

その前の歌詞が「ねぇ この思いは何」ですしねぇ。

 

現に2番の歌詞の前半、

>晴れた日の朝 あなたのことが どこまでも大切でした
>言えないでいた言葉交わし合った 笑えるくらい穏やかに

>それは 酷く丈のずれたオートクチュール 解れていくボタンの穴
>こんな ちぐはぐな舞台はもう締めたい なのに

この部分では、今まで言えなかったことを話し合ってみたらあまりの違い(つまり現実)を知って、1番でした恋は速攻で破れたということなのでは?とさえ思いました。

 

そして、

>エピローグの台詞が言えなくなった
>ねえ あなたを見つめていた

>どれだけ生まれ変わろうとも 意味がないくらい
>どこか導かれるように あなたと出会いたい
>今更言いたいことなんて 一つもないのに
>わたしあなたに恋をした 苦しさと一緒に
>ずっと×3

それでも、「エピローグの台詞」は言えなくて、「苦しさと一緒に」もう一度「恋をした」ということなのかなと考えました。

「苦しさ」とは前の記事と同じようにそれでも“一緒にいたい”から、相手との差異を擦り合わせていくことや相手のために自分を変える努力をすることだと考えます。

 

 

ちょっと話が飛びますけど、花束に関連して私の解釈と考察した前の記事では映画『花束みたいな恋をした』をあげましたけども、動画で主人公の2人は復縁するのかしないのかの考察動画があって、確か投稿者の方は半々ではないのかということを言っていたような覚えがあります。

でも、2人が復縁するのかどうかは既に題名に書かれているんじゃないのか?と思いました。花束を切り花として考えるなら、1回枯れてしまえばそれでもう終わりだから、復縁はありえないだろうという結論に、私はなりました。

 

 

話を戻して、「PaleBlue」のMVでは題名の所での花束は抜かして見ると、花束は2番から出てきます。1番で“花束と一緒に恋をした”からなんだと思いますけど。

大事にしてベンチに座っている場面もあるけど、けっこー雑な扱いをしているリネンのシーツに囲まれた場面も(振り回すなど)あって、それは、この恋は花束=切り花仕様ではダメだから、という意味合いを持っているのかなと考えました。

 

 

そうすると翻って、アイネクライネの「今痛いくらい幸せな思い出が いつか来るお別れを育てて歩く」の歌詞って、その“幸せな思い出”が切り花仕様と考えると、いつか枯れることを前提に時間が経つなら“お別れを育てていく”とも言えるよね、と考えました。

 

そして、アイネクライネのMV解釈と考察の記事で書きましたが、

米津玄師の楽曲「アイネクライネ」MVの解釈と考察とちょっと「眼福」の感想 - 現実と妄想のはざま(改)

相手が自分と同じ“かいじゅう”であることが分かった時に、土台といえるようなものができて、切り花仕様だった恋は「植え花」仕様に変わったんではないかと思いました。

 

そうやって考えると、「orion」は終わってしまった切り花仕様だった恋を植え花仕様に変えてくれと神さまにお願いするように思えるし、「春雷」は切り花仕様のままで終わってしまったけどバネにした物語にも思えるし、他はちょっと分かんないですけど…。

 

んで、「PaleBlue」のMVに戻ると花束と一緒に「運命のリネン」のシーツも同時に出てきているので、それが2人の土台になって、この恋が切り花仕様から植え花仕様に変わっていくのではないかと考えました。

上記で書いた、花束を大事にしている状態と雑に扱っている状態の2つの場面があるというのは、男性側も葛藤があるからかもしれないなということを考えました。

 

この考察を元にちょっと前の記事を編集しようかなと思います。

それと、花束の意味をエーデルワイスや映画に引っ張られて思い出としてましたけど、ここはもう単純に“恋をしている状態=花が咲いている”ってことでいいんではないなとか思いました。

ちょっと書くつもりがめっちゃ長くなったけど終わり。