現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

15-3、微細なアウシュビッツとトラウマへの向き合い方の本

ゆえのです。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

 

前に書いた記事の続きを 書いていこうと思います。

【超閲覧注意】15-2 微細なアウシュビッツ、って何だろう? - 現実と妄想のはざま(改)

 この中で、

 >自分の中の幼い頃にあった殺されると思うくらいの恐怖は、この「生殺与奪」の恐怖から来ているのかもしれないと考えました。

と書いたんですが、それへの対処の一つとして以下の本が自分的に効果があると思ったので紹介していきます。

 

 

この本はトラウマの仕組みをわかりやすく教えてくれています。
トラウマのある人とない人ではストレスが起こった場面での反応がまるで違います。
普通の人は、安静時はストレス値が0で、ストレス刺激を受けた時に数値が上がり、
そして減っていき安静時に戻る。
でもトラウマのある人の一例では、安静時にストレス値が高く、ストレス刺激を受けると数値が急激に落ちていき最低レベル(普通の人の安静時)に落ち着き、40分後に高いストレスレベルに戻り、それを維持し続ける。つまり安静時がストレスMAXの状態。

トラウマのある人間は、今この瞬間、普通にしてるだけで脳内はストレスフルなのです。


それを解決するためのやり方がこの「それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも?」が提示する、恐怖を見つけて、言葉を唱え、それをより根底の恐怖へとさかのぼっていく方法です。

 

私がこの本を見つけたのは、2018年2月頃ですが、ちょうどその頃職場で、長年いるお局さんになんか変に気に入られて絡まれていました。私は普通に話しているだけなんですけど、その様子が面白い!と言われていたんですよね。最初は受け流してたんですけど、その内話しているとゲラゲラ笑い始めるくらいになってきて…ちょっとコレは異常だそ?と思って苦手になってしまっていました。

 

この本を読んでから気づいたのですが、この人は無意識に下記に抜き書きしたような、私の“ストレス刺激の動作”を感じ取って、それに面白さを感じていたのではないかと考えるようになりました。


抜き書きーーーーー
第一次世界大戦のときのPTSDをシェルショックと呼んでいた。大砲が発射されたときの爆音がした時、人はビックリして飛び上がる。ドーンと爆音がした時に「ワーア!」と飛び上がるが、その驚いたときの驚愕反応がずっと続いてしまう。ずっとその場でピックンピックンと飛び跳ねる。自分で止めようとしても止められなくなる。平和な町に帰ってきても、そのピックンピックンと飛び上がる反応はいつまでたっても消えることがない。
*****
普通の人は「ドーン!」とストレス刺激が与えられた瞬間に、心臓がドキドキドキして緊張のホルモンが瞬時的に上がる。そして、ちょっとしたらすぐに死の恐怖は収まって「あー!死ぬかと思った!」とほっとする。トラウマを受けた人が逆になるってことは、普通の人が一瞬だけ感じたあの死の恐怖を安静時にずっと感じていることになる。
あのシェルショックでジャンプが止まらなくなってしまった人たちは、その安静時に襲ってくる死の恐怖を回避するために、ストレス刺激を自分で作り出す。回避に使っているストレス刺激が〝ジャンプ〟となる。
*****
だから、ストレス刺激を自分で作り出すのを止めてしまったら、ものすごい〝死の恐怖〟に襲われてしまうから、そのストレス刺激を作り出すことが止められなくなる。「止まったら死ぬ!」となってしまうから、ジャンプが止まらなくなる。

ーーーーーーここまで

つまり、私は人と話しているときに無意識下の中でこういうストレス刺激のジャンプをしていて、そのお局さんはそれを感じ取って笑っていた、ということです。

 

私が発見した自分の根源の恐怖は「認められる恐怖」だと思っています。

育ってきた中で、自分の能力を発揮すると主に両親に嫉妬されることが多く感じられていて、嫉妬されると見捨てられて最悪死んでしまうかもしれないという恐怖があったんだと思います。

少し大きくなってくると、今度はその自分の能力を利用されるような感じに思えてきて、一時期両親や親戚の人たちのことをハイエナみたいに感じていた時もありました。

なので根底にあるのは「(自分の能力を)認められる恐怖」だと推測して唱えるようにしていったところ、そのお局さんからはあんまりからかわれなくなったという経緯があります。

 

その自分の体験からこの本で書かれていることは有用であると私は感じています。

 

その後はお局さんも退職して分かりやすい脅威?がなくなったせいもあってかあまり唱えなくてもよくなってしまったりしていて、あまり活用していなかったりもしてました。

でもこの「生殺与奪」の記事を書いていて思い出したのと、職場でまた苦手な人と接する機会ができたので、『生殺与奪の権利を“自分が”握っていることに悦びを感じるまたは気持ちいいと思うような人』だと感じているので、もっと直に「殺される恐怖」を唱えていたりしています。

 

そういえばこの前、最果タヒさんという方のエッセイをある雑誌で読んだことがあって、こういうことを思っていいんだと思ったことがあります。

抜粋ーーーーーー

なぜ何もやりたくないと思いながら生きていけないのか、心の底から疑問に思います。

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何もやりたくない私に「やりたいこと」をくれ!というのが本音であり、でもそれが見つかるまでは「やりたいこと」の可能性は全部何よりもめんどくさそうで、というか「やりたいこと」だってたぶんめんどうが多い、と最初からわかっていてそれはそれで恐ろしくてたまらなかったことを今も覚えています。

*****

夢とか、好きなものとか、私にとってはめんどくさいものの極みです。これらを得て、毎日これらと共に今は生きる私ですが、別に好きなものがすべての虚しさを解消するわけではないし、「虚しさと無縁なものこそが愛」なんて思いません。

*****

人生は虚しいですが面白いです。そう言い切るために、私は好きなものを大切にしています。

ーーーーーーここまで

 

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私には、「時間」に対してもトラウマがあるんだなということを知って、「生きていく恐怖」を加えて唱えることにしました。

 終わり。