ごきげんよう、ゆえのです。
読んで頂いてありがとうございます。
先日Reolさんの2023年のライブ「新式浪漫」が始まって、初日26日の名古屋公演にいったのでその感想など書こうと思ってたんですけど、先日ちょっとTwitterである人にマジレスを送った件で、なんかまだ収まりどころがつかない所があって今日はそのことについて書いていこうと思います。
その前に、そのことに対処する時に参考になったツイートがあったのでそちらを載せておきます。
下らないことを目にした時、いやなことに遭遇した時は、不平や愚痴、批判や非難の前に、それが自分の前に現れた意味を考える。
— ~然~ (@zen_manofwords) 2023年1月24日
それは何かを教えていないか?
すべては、自分を深める手がかり、さらに一段昇るための足がかりだ。
Twitterでマジレスを送ったある人ってのは、親交っていうほどの親交があった訳ではないけどその人のツイートやnoteを読むことで自分にいい刺激をもらったり参考にさせてもらってたところがあって、その人がちょうど1週間くらい前に(え?何でこんなことを書くんだろう?)って思うようなツイートをしていて、内容は自分にとっては不快だったのでちゃんと見るのはやめたんですけど、正直言って誰か注意してくれないかなぁと思うようなレベルで、結局最終的には自分が注意?したようなもんなんですけど(それがマジレス)。
進言?すればその人と縁が切れても仕方がないと思うレベルで、向こうが私のことをどう思っているかはわからないし、そんなことを聞けるような仲でもないし、これからもその人と繋がっていることで得られる上記のことを失いたくなくて、そういう「快」のために自分が感じた「不快」を我慢しようとしてました。そういうのに気がついたのは、金曜日辺りなんですけど。
そんで、ちょっと話は逸れるんですけどその前の水曜日に繊細さのメリットって何だろう?ってことを考えてて、些細なことでも至福を得られることだと考えてつまりコスパが良いことなんではないかと結論づけたりしてました。
で、子供の頃に楽しいことをやっている時に限ってほぼ毎回のように父親に嫌味を言われてて(その楽しくしていることに対して)それが嫌で、自分の「快」が「不快」を誘発するのなら快=楽しむことを諦める、を選択したような気がするんですよね。子供の時なんて自分と親の区別がついてないから自分の心の中まで親に伝わってしまうと思って自分の心から「楽しむ」ことを締め出すまでやってたというか。そうすることで「楽しむ」ということが分からない状態が体に刻まれたのかも?とか思いましたけど。
つまり、上の話と続けて書くと
・「快」のために「不快」を我慢する
・「不快」を誘発するから「快」を諦める
という自分の中でも訳のわからないことになっているみたいで、快不快が分離できてないというか、その間に「境界線」が引けてないということを、今回のマジレスを送ることになった件は教えているんではないだろうか?ということを考えたりしてました。
上のツイートの抜き書きーーーーーー
下らないことを目にした時、いやなことに遭遇した時は、不平や愚痴、批判や非難の前に、それが自分の前に現れた意味を考える。
それは何かを教えていないか?
ーーーーーーここまで
そしてこちらのブログを久しぶりに読ませて頂いて、「境界線」を自他境界線と認識する弊害について書かれていました。
自他境界線では整理できない理由 | トラウマから自由にするRCメソッド (株)RCM社長 高橋万紀子のブログ
抜き書きーーーーーー
カウンセリングで使う境界線は
自分と他人を分ける境界線(自他境界線)
だけでなく
他人の人格と病気を分けたり
職務の責任の範囲で線引きをしたりします。
ーーーーーーここまで
とあって、上の話も「自他境界線」では解決できないことなのではないかと考えました。
あと、件の彼女に自分の感想を直に伝えるのに勇気をもらったのはこちらの記事でした。
境界線を引くとは、自分にも相手にも自由をあげること | トラウマから自由にするRCメソッド (株)RCM社長 高橋万紀子のブログ
つまり端的に言うと、ああいうことを書く自由が彼女にはある、ということ、書くかどうするか決める自由は彼女にある、ということです。
そしてそれを面白く読む自由が面白く読みたい人にはあって、そういうのはダメだと思う自由がそう感じる人にはあるということです。
抜き書きーーーーーー
相手にも自分にも
決める自由をあげることが
境界線を引くことなのです。
自由をあげようと思っても
それぞれできない理由があります。
理由は潜在意識に沈んでいます。
だからカウンセリングで扱うのです。
ーーーーーーここまで
とあって、「自由」って何だろう?と久しぶりに考えたりもしました。
そういう前提で私はどうしたいのかを考えてみて、私も自由が欲しくなりました。彼女に「不快なものは不快だ」と伝えるかどうするかを決める権利は私にあります。
でも伝えたところで、それをどう受け取るか受け取らないかを決める自由は彼女にあって、私にはないということです。
まあ最初のツイートに準えると、「すべては、自分を深める手がかり、さらに一段昇るための足がかり」ということにして、そのためのヒントをもらったと思うことにします。
終わり。