私が十数年前、自分がアスペルガーではないかと疑ったのは、人との会話の中で、話し始めや話し終わるタイミングがよく分からなかったり、その時の話題の反応として少しズレていると思われるものを返していたり、そのために怪訝にされたり人を傷つけてしまっていたりしていた部分が大きかったです。
あと、過集中だと思える部分が見受けられたりしていたところですかね。漫画が好きなのですが、読んでいる最中に話しかけられても聴こえていないことはザラにあるし、好きな音楽の聴き方も好きな歌手のCDを買ってきて、その中のCDを買うきっかけになった一曲だけを1〜2週間くらいは続けて聴いていて、それに飽きてきたらそのCDに収録されている他の曲を聴き始めるといった感じのものでした。
通勤中に聴くことが多いですが、リピート機能がないカーオーディオだったので、その曲が終わったらリピートボタンを自分で押していたのですが、全然その手間が苦になりませんでした。
これはそんなに困っている、ということでないのですが、 分かりやすい例になるかもしれないので書いた次第です。
そして、今回「感受性が強すぎて、他人と自分の区別がつかない」「『境界線』を引きにくい」という特徴が自分にあてはまるのではないかということに気がつき、実は私はずっとそれに困っていたんではないかということにも気がつきました。
そしてそれって結局どういうことか?ということを知るためにも検索して、見つけたのが「発達障害の人の、『他人との境界線が分からない』というのはこういうこと。集団生活にひそむ危険性」という記事でした。
私の場合なのですが、自閉症とHSPの関連についても考えてて、基本たぶん自閉症なので「当然あなたもそうでしょ?」って言いたいんだけど、HSPで他人がどう考えているのかわかる関係で、これは言っちゃいけないことだっていうのは分かるのですが、なぜ言ってはいけないのかは分からないままで来てしまっていたような感じなのかなと。
それで私がしていたことは、HSPで他人に自分を寄せていった先で自閉症を展開する、というようなことだったのかなと思いました。
つまり、相手に自分を寄せていって、何で私は相手と同じように出来ないのだろう?(相手は私と同じはずなのに)っていうことをやっていて、自分を責めたりしてた、みたいです。
そんなことをやっていたら当然自分なんて分からなくなるし、単体での自分が全然見えなくて自分に何ができて何が出来ないのかが全く見えない状態になっていたんじゃなかろうかと思いました。
高校生の時に、「○○○ちゃんは個性がないのが個性だよね」と言われたこともあり、その頃には上記の手法が確立していたんだろうと今になって振り返ると思います。
そんなことになっていたので本当に困っていたのですが、自分に何が起きているのかわからないから人に説明することも出来ないし、自分が困っていることは他人も分かっているはずなのに、誰も助けてくれない、みたいに思っていたところもあるかと思いました。
そして、結果、困るという概念が分からない状態みたいにもなっていたような気がしました。困るって何?みたいな。自分が困っていることに気がつかなくて困っていないと思っていたから、ということではないかと思います。
そして、これは私の場合だけであって、他の方にも当てはまるものかどうかは私には分かりませんので、そこはご了承ください。
上記のブログで、
「自他の境界線がある」=「自分にも他人にも、理解・責任・能力(技能や許しなど精神的なもの)に限界がある」
という言葉を参考にさせて頂きながら、境界線を引く、ということをしていこうと新たに思いました。
そしてこの言葉に対しても気づきがあり、私は、自分にも他人にも、なんとなく限界がないように感じていたように思いました。
つまり、自分が相手に要求することは際限なく相手は受け入れなきゃいけない、相手が自分に要求されることは際限なく自分は受け入れなきゃいけない、という風に思っていて、この言葉を読んだ時、自分にも限界があって良いんだ、ということが分かって、凄くホッとしました。
限界という言葉もよく分かっていなかったみたいです。