現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

8ー3、内田樹、中沢新一『日本の文脈』 〜贈与

前後しますが、「レヴィナス」に関連した投稿がまだあったので載せていきます。

また長いです。

あと、次の土曜日の更新は旅行に行くのでお休みします。次回の更新は来週の火曜日です。それまでに書きたいことができたら更新するかもですが、未定です。

 

スピ某所で教えてもらった文章や本などを差し障りのない範囲で紹介していっています。

 

 

日本の文脈

日本の文脈

 

 

以下、内田樹中沢新一『日本の文脈』より抜き書きーーーー

◎ 内田:
人類の経済活動の起源にあるのは、「自分にとって有用なものを贈与されたので返礼した」という行為ではなく、そのへんに転がっていた、なんだかわけのわからないものを「自分あての贈り物だ」と感じたことなんです。

レヴィナスはこれと同じような状況について、「始原の遅れ」という言葉を使います。これは「私は起源に出遅れた」という宣言です。

私はすでに誰かから私あての贈り物を受け取ってしまった。私がここに存在していられるのは、私より前にこの場所にいた誰かが、私のために場所を空けたからだ。そういうふうに考える。それがユダヤ教の信仰の原点である、とレヴィナスは書いているんです。

これはまさしく沈黙交易を起動した最初の交易者の名乗りと同じものです。自らを交換において出遅れたプレイヤーとして引き受けることのできる人聞から交易が始まったように、「私はすでに贈与を受け、それゆえ反対給付の義務を負っている」と名乗る人間の出現から人類の歴史は始まる。

◎ 中沢:
贈与とは何か。「とらえがたい存在から、この世界に何かが送り込まれている」という思考ですが、いま内田さんがおっしゃったように、人類とはそれを思考の中にセットした生き物なんだと思うんですね。

何が私たちの世界に投げ込まれてくるかわからない。その点では偶然性やそれをゲーム化したギャンブルともかかわっているんじゃないかと思うんですけども、この思考が純化してくると、神様とか宗教の考え方の基礎ができてくる。

ユダヤ教イスラム教、そしてキリスト教にはとくにそういう贈与論的な側面が強いんですが、「神様とは何か」というと「私たちに贈与を行う存在である」ということになる。

だから「私は存在している」ということを「私は何者かによって贈り与えられたものである」というふうにも表現されることになります。それがこの世界とこの世界に生きている私たちの存在の意味だと理解しようとしています。

この理解の仕方は人類に普通的で、「宗教とは何か」ということを突き詰めていくと、ほとんどこの点に凝縮されると思います。

◎ 中沢:
経済学者のハイエクは「市場によって生みだされる特種な自生的秩序」を意味する言葉として「カタラクシー」をつくりましたが、そのもとになったのは古代ギリシャ語の「交換する」という動詞です。

そしてそれだけではなく「コミュニティに入る」とか「敵から味方に変わる」という意味もありました。

つまり、未知の領域からやってくる何ものかとコンタクトして、そこで贈与が起こったときに、その相手は私たちの味方に変容しますよ、というのが古代ギリシャ人の考えです。

市場の奥には見えない身体みたいなものが掻いていて、それは贈与の原理で動いているけれど、そのことは「思考の呼吸法」を整えないと見えてこない。市場の根底に贈与があることに気づけば、価値についての考え方は大きく変わってくるんじゃないかと思うんですね。

◎ 内田:
交換のもっとも原初的なかたちはキャッチボールだと思うんです。キャッチボールというのは、ボールのやりとりをしてるだけで、何一つ側値を生み出さない。でも、僕たちは飽きずにこのやりとりを繰り返すことができる。いったい何がそうさせているのか。

このゲームを成り立たせている本質は、ぎりぎりまで削ぎ落としてみると、「あなたがいないとゲームができない」というメッセージの贈り合いなんです。

もっと強く言えば、「私はあなたがいないと生きられない」という言葉を一球投げるごとに相手に贈っている。

交換がめざしている最終的な言葉というのもそれと同じだと思うんです。「私はあなたに存在してほしいと願っている」。

交換の場において、交換する人々はたがいに「あなたにはいつまでも生きていてほしい(あなたがいないと、私は交換を続けることができないから)」という言葉を贈り合っているわけです。

経済活動の起源にあるのは、この祝福の言葉だと僕は思っています。

霊長類から分岐して、人類がいちばん最初に獲得した言語は、おそらく祝福の言葉なんだと思います。

「あなたにはいつまでも存在してほしい」というメッセージを仲間に向かって繰り返し、効果的に伝えるような社会制度を、たぶん人間以外の生物は持っていない。

人間の定義はいろいろありますけれど、僕は「祝福を贈るもの」というのも、人間の定義の一つに採用していいんじゃないかと思います。

人間の経済活動にはさまざまな様態がありますけれど、その起源、その根本にあるのは人間の他者に祝福を贈ることのできる能力だと思います。大昔、サルと人間の中間ぐらいにいた生物種のどれかが、おたがいに祝福を贈り贈られるという関係を通じて生きる知恵と力を爆発的に高めるということを何かのはずみで経験的に知った。

こちらが働きかけたことに対して、あるときはその百倍のものを返してくれて、あるときはこれだけ労働したにもかかわらずまったく返ってこないという予測不能性は、農業の場合は大きいですよね。漁業や狩猟でも同じだと思います。爆発的な贈与もあるし、まったく返ってこないこともある。でも、その予測不能性こそが人間の労働を動機づけていると思うんです。

いま政治経済について語っている人たちの話を聞いていると、「社会のシステムを単純にして、能力と報酬が相関するシステムをつくればみんなハッピーになる」というような話ばかりでしょう。

経済活動はそもそものはじめから、そんなシンプルなものじゃない。金を儲けたり、出世したりしたいから人間は経済活動をするわけじゃないんです。

人間をオーバーアチーブに導くために、言い換えれば「人間とは何か」についてのメタ認知をもたらすために、経済活動という装置を一つ噛ませているんです。

交換という活動を経由すると、人間の自己認知・自己超克の力は高まる。だから、人間的活動の中に経済活動を持ち込んだわけで、貨幣だの利益だの株価だのが一次的所与としてまずあったわけじゃない。

◎ 中沢:
日本人は、かなり風変わりな精神構造を持っています。日本の文明の構造にもちょっと風変わりなところがありますけど、いちばん共通点を持っているのはアメリ先住民族でしょう。その証は、レヴィ・ストロースの研究の中に何度も出てきます。

アメリ先住民族の神話は、日本の思想とよく似た構造を持っている。アメリ先住民族の神話は、かつて人々が生きるために採用していた思想であって、古代に地球全域にあったひじょうに豊かな哲学みたいなものです。日本人とアメリ先住民族の哲学というのはその時代の生き残りみたいなものです。」

人間は大地の母の腹から生まれて、地上を二本足で歩くわけだけれども、もともと大地の中から生まれたものとして、大地の影響力を切り離してしまうことはできない。

いつも母親との近親相姦を促す力とか、足を引っ張り降ろそうとする力が働く。だから、オイディプスはまっすぐ歩けない。これは人類が考え出した、いちばん古い時期の「人間とは何か」という問いに対する解答なんですね。

「人間とは何か」というと「まっすぐ歩けない生きものである」。立ち上がって、一個人として明瞭な概念を使って、世界について論理的な思考を行おうとするけれども、つねに大地から足を引っ張られていて、足を引きずったり、左右にふらふら揺れながら生きていくのが人間である、という哲学。

この神話は古代ギリシャだけでなく、アメリ先住民族にも残っています。おそらく国家というものができる前の人類にとって、自分はどういう存在なのかを考えたときに、足が不自由でまっすぐ歩けない、触手を伸ばして呑み込もうとする大地に足を引っ張られていく存在であるという認識があったことを伝えているのが、こうした古代の神話だと思うんですね。

日本文明というのはまさに、このオイディプスの神話通りの文明をつくっていると思うんです。明瞭にかたちづくられた概念を、漢字を介して中国人から受け取り、またヨーロッパから受け取っても、それを使いながら、大地をまっすぐ歩いていく存在にはならない。

そういう意味では、古代の人々のものの考え方をそっくりそのまま受け継いで、その上に文明を築き上げた、たいへん希有な事例が日本なんだと思うんですね。

◎ 内田:
いつもふらついている。それは、大地の要素と天空の要素、いろんな奥質なものを取り入れて、矛盾をかき混ぜながら自分をつくり上げようとしてきたからなんだ。そういう文明なんだ。

日本人は人類の中でもかなり突出したことをやっていると、レヴィ・ストロースはすごく褒めてくれます。日本人はまっすぐ歩くことができないで、まわりからは、やかましく言われるかもしれないけど、そこがあなたたちのいいところですよ、というのがレヴィ・ストロースの考えでした。

大切なことは、自分の修業の現時点での目的が暫定的なものにすぎないという自覚だと思うんです。

最終目的地までの旅程が全部あらかじめ開示されていて、それを「すごろく」を上がるように点検しながら進んでゆくというのは、修行のやり方じゃない。

日本人の修業というのは、「自分がいま達成しようと必死に努力している目標は『ほんとうの目標』ではない」という逆説に耐えることを要求しますから。

これは辺境の列島民に固有の文化的な伝統じゃないかと僕は思います。日本人が採用してきた、ある種の「生命力を賦活する方法」じゃないか、と。

◎ 内田:
ふらふらして、どっちに行ったらいいのかなっていうとき、頭で考えるとわからないんですよね。いろんな「ノイズ」が入ってくるんですけれど、それを脳はどうしても重要度や有用性に基づいて格付けしちゃう。でも、身体はそういうふうな情報処理はしないんです。配列しないんです。

無数のノイズの中にときどき「タグ」がついているのがあるんです。それが引っかかる。すると、そちらに引っ張られる。「ノイズにタグをつける」仕事って、いったい誰が、どこがやってるのか、よくわからないんです。でも、僕はそれがすごく気になるんです。

自分がいまこっちに行きたいって感じるときに、僕の身体をこっちに向かせているのは、僕じゃないんですよね。僕の中にある「何か」が働いて僕を動かしている。でも、それが何だかわからない。

身体が指示する通りにやっていくと、いろんなところでいろんなものにつながる。事後的に「なるほど、こういうことがやりたかったのか」ということがわかる。でも、それは事前に計画を立てて、予測してそうしたわけじゃない。僕自身が統御したものじゃないんです。

◎ 中沢:
すべての人間的営為は、突き詰めれば、「贈与と反対給付」によって構成されている。

労働もそうなんです。労働は労働するに先立って、すでに贈与を受けたことに対する返礼なんです。等価物の交換じゃない。これだけの努力をしたから、これだけの報酬をくださいという話じゃないんです。

僕たちはいくら返しても返しきれないものをすでに贈られている。だから、お返ししなくちゃいけない。それが労働の基本的な動機づけだと思うんです。

自分はすでに負債を負っている。だから、このご恩を返さねばならないというマインドセットがないと、人聞は労働しない、労働できないんです。

すべての人間的な営み、人間的創造の起点にあるのは、この無根拠な負債感だと思う。

農業の場合は、その努力と報酬の非対称性がさらにはっきり目に見えてわかると思うんです。大地に種をまくと、その何十倍ものものが戻ってくる。自分が努力したものの何倍、何十倍のものが戻ってくる。

農業従事者の収穫に対する基本的な感情は「感謝」ですよね。これだけ労働したのだから、これだけの収穫があって当然で、誰にも感謝する筋はない、なんてことを考える農民って考えられない。

◎ 内田:
レヴィナスの本を読んでいて僕にいちばん「来た」のは、「始原の遅れ」という概念です。人間は何もないところにぽこっと誕生したわけではなく、誰かが自分の場所を空けてくれたので、そこにできたスペースに存夜することができた。

自分たちがここに存在するために、それ以前にそこにいた何かが姿を消した。その「もう存在しないもの」が、私たちが生き、存在することを可能にしてくれた。

◎ 内田:
武道の「道」は「自分はすでに遅れてここに参入した」という自覚から始まります。偉大な流祖がいて、その人が天狗とか武神とかに夢の中で出会って天啓を得て発明した巨大な体系がある。

僕たちその道統に連なるものたちは、自分が起源ではなくて、いちばん末端の、初心のところから修業を始めて、しだいに複雑で高度な術技と心の持ち方を体得してゆく。

でも、どれだけ修業しても先人の達した境位には決してたどりつくことがない。最後は「夢の中の天狗」ですから、無限消失点みたいなものです。

終着点には到達できない。でも、そのことは少しも修業するさまたげにならない。

この「すでに遅れて参入して、決して起源には遡及できない」という枠組みは、学習する装置としてはきわめてすぐれたものじゃないかと思います。ユダヤ人と日本人は、かたちは違うけど、社会集団が生きていくために必要な生存戦略として、こうした態度や考え方を採用してきたんじゃないかな。

ーーーーーーここまで