ゆえのです。
いつも読んで頂いてありがとうございます。
皮膚というテーマでもう少し紹介できる投稿があったので載せていきます。
不定期に、スピ某所で教えてもらった文章や本などを差し障りのない範囲で紹介しています。
2012年3月頃に投稿されたものです。また長いです。
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人体を覆う皮膚とおなかの絨毛突起は「社会意識」と「宇宙意識」が出会う場所。
つまり、「人生の意味」が生まれる意識場です。人生の意味生成は生きるうえで大切なもの。
それを生み出すのは、脳や中枢神経系が主なのではなく、皮膚やおなかの絨毛突起、毛髪なのです。
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傳田 光洋『第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界』より抜き書き
第六章◎皮膚から見る世界
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「非因果律的世界」を護る皮虐
生体について、「内部と外部」を明確に分けて考えることを初めて提唱したのは、先にもわずかに触れましたが、十九世紀のクロード・ベルナールです。
彼は外部環境に対し「体内環境」という概念を打ち出しました。これは画期的なことです。初歩の解剖学が常識化した現代の人には、あたりまえのことだと思われるかもしれません。しかしこの概念には、生命の本質に迫るさらに深い意味がこめられている。
特に生体の維持に外部環境の重要性を指摘した点で、後の科学に大きな貢献を成したと思います。因果律というものがあります。要はすべてに原因があり、そして結果があるということです。言い方を換えれば、過去が未来を決定する、ということです。現代社会
において、これを信じない人は稀でしょう。
ギリシャ哲学、インド哲学に始まり、ルネサンス以降の西欧科学の基礎であり、現代科学の根本です。ところが、日本の生物物理学の祖とも言うべき渡辺慧博士は、恐るべき発言をされています。
量子力学に大きな貢献を成した物理学者シユレディンガーによれば、生体は外部環境から負のエントロピーを取り込み、正のエントロピーを放出して「内部環境」の秩序を維持しているシステムです。
渡辺博士はこのような生体の「内部環境」では逆因果律とでも言うべき現象、すなわち未来が過去を決定する、という原理、もありうるのではないか、と提言されています(渡辺慧・清水博『物質の科学・生命の科学』、石井威望他編『ヒューマンサィェンスーミクコスモスヘの挑戦』中山書店1984)。
因果律、つまり過去から未来への時間をあからさまに見せるのは、熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則です。
水に落としたインクが拡散することはあっても、一度拡散したインクが自然に再集合して濃い一滴に戻ることはありません。
こういう現象を「外部」で観察することに慣れてしまった私たちは、それがすべてのものの理(ことわり)であると「錯覚」している。そう、それは「錯覚」に過ぎない。
時間が過去から現在へ、そして未来へ流れるのは閉鎖系でしか見られない現象です。生命は閉鎖系ではありません。ですから時間の流れが存在しない、あるいはその方向が私たちの常識とは異なっている可能性がある。
プリゴジンらが確立した開放系の熱力学では、シュレディンガーが予見したことが数学的に証明されています。すなわちエネルギーや情報が出入りできるシステムの中では、「自己組織化」が生じる、すなわち無秩序から秩序が立ち現れる。
ここで因果律は成立しません。つまり、生体の内部環境では原因が結果をもたらす、あるいは過去が未来を決定する、そんな「常識」が通用しない可能性がある。
したがって、生命現象の科学的解明に際しても、因果律的なアプローチ、それは現代科学のすべてを覆っている方法論ですが、それを疑う余地もまたあるのです。これは大変なことです。
仏教でもギリシャ哲学でも「因果律」にその基礎が置かれています。この因果律に反旗を翻すことの非常識は明らかですが、それでも、クロード・ベルナールからイリャ・プリゴジンに至る科学の流れは、数千年来の人間の認識に疑問を投げかけている。
皮層の研究に一戻ってみましよう。培養皿に表皮細胞のケラチノサィトを蒔いてしばらく培養すると、培養皿は細胞で埋まります。その一部に刺激を与えると、細胞集団にシンクロナイズするカルシウムイオンの波が発生します。
大きな電光掲示板の上に現れるパターンのようです。電光掲示板の電球やLEDには、それを制御する外部のシステムがあり、そのコントロールによってまとまったパターンが形成されます。しかし実験室の培養皿には表皮細胞しかない。
電球を何百と並べて電源を入れたら、それだけで突然、模様が現れ、電球が周期的に明滅し、さらにその模様が移動してゆく。そんな現象が起きたら、それこそオカルトでしょう。
しかしケラチノサイト細胞を見ていると、そんな不思議が簡単に起きる。
表皮の形成も自律的であることは本書冒頭に書きました。これも自律的な表皮の形成と言えば簡単ですが、実は、レンガの堆積物がその形を変えながら、自然に整然と並ぶレンガ塀を作り出すような、薄気味悪いぐらいの現象です。
単純な構造の表皮ですら、これだけの「非因果律的」現象を見せてくれます。生体内、とりわけ複雑な構造をもつ大型動物、そして人間の「精神」には、多様多彩な「時間の矢に逆行する」現象が隠れていることでしょう。
皮層は生体にとってその内的「非因果律的」世界を維持、発展させる境界であり、過去から未来へ流れる外の世界の時間の流れから、「未来から過去へ」流れる世界を護るシステムです。
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これまでのところ、私たちヒトの、最後の形態上の進化は毛をなくしたことらしい。環境に対して直接対時することになった皮層は、これからもヒトの運命を左右し続けるかもしれません。
しかし言語の発達、視覚情報の発達により、皮層感覚は暗黙知の世界に姿を隠しています。そのため皮層の重要性が見えにくくなっている。皮層から生命科学を、そして私たちの未来を見直す時期が来ている、そう信じています。
皮層が見る世界
人間は多くの細胞から成り立っています。細胞が組織を作り、組織が身体を作っている。
人間に生と老いと死があるように、皮層の細胞にも生まれて老いて死んでゆく定めがあります。細胞たちの気持ちになって世界を眺めてみましょう。
まず感覚に携わる細胞をくらべます。眼の網膜にある視細胞には、赤色を感じる細胞、緑色、青色を感じる細胞の三種類があります。一つの細胞は一つの色しか感じられません。
その細胞が感知できる光を受けると、細胞膜の電気状態が変わります。その電気信号が視神経で受容され、やがて脳で認識されます。つまり視細胞の世界は、一つの色を感じ、電気信号に変える、それだけです。
聴覚に携わる細胞には毛が生えています。音の振動がこの毛を倒すと、やはりそれが電気信号に変換されます。
味覚、喚覚の最前線の細胞も、味や匂いの元になる分子がくっつくと、それを最終的に電気信号にする。
まとめると、各々の細胞は光、圧力、分子のどれかの刺激を受け、それを電気信号に変換する。単純な世界です。
表皮細胞ケラチノサィトは違います。
圧力、温度、湿度、分子、そして光を感じることができます。そしてアウトプットも、電気のみならず様々な情報伝達物質を作って放出する。感受性豊かで表現も多様なのがケラチノサイトです。
次に神経細胞の世界を考えます。神経細胞には興奮と抑制の二つの相があります。その状態を作るのは、電気信号とそれによって放出される様々な情報伝達物質です。
つまり神経細胞は、電気と情報伝達物質で興奮したり静まり返ったりする生活を過ごしている。
ケラチノサイトは神経細胞と似ています。やはり興奮と抑制があり、電気や情報伝達物質でその状態が変化します。
神経細胞と異なる点は、様々な環境変化を感じるところでしょう。神経細胞は、ただ他の細胞からの信号を待つ生活です。直接、環境の変化を感じることはできない。
細胞が集まって組織になると、また世界が変わります。ケラチノサイトが集合して表皮という組織になると、情報処理システムになります。となりの細胞とコミュニケーションを取り合って、外からの刺激に対して波や振動を発生させる。こういう芸当は他の感覚受容細胞にはできません。
単独でも多様な環境変化を感受し、組織としては中枢神経系のような情報処理機能を見せるケラチノサイト・彼らが人間の身体を覆う臓器として見ている世界を考えてみましょう。
ケラチノサイトは外の環境変化を感じ、それを情報変換して、神経系や循環器系、内分泌系のシステムに提供しています。
一方、神経系や内分泌系からの情報も受けています。
さらにその機能を維持するため、絶え間なくシステム更新を行い、環境変化にも適応する。忙しいから常に新しい細胞に入れ替えなければならないのでしょう。
ユクスキュルという生物学者がいました.生き物はそれぞれの世界をもっている、という概念を示したことで有名です。
ゾウリムシの世界には、餌となる微生物と、命の維持に必要な水の変化、Ph(ペーハー)しかありません。
吸血性のダニは、血を吸う対象である動物が出す物質や温度などが「見える」世界であり、血を吸うことだけが表現する世界です。
その著書『生物から見た世界』(日高敏隆、羽田節子訳 新思索社1971)には「天文学者の世界」という傑作な例まで挙げられています。
つまり天文学者の世界は、望遠鏡を通して遠くの星まで広がっているというのです。
この考え方で現代の人間社会を考えてみます。今の人間の世界はインターネットを通じて世界中に拡大しています。視覚と聴覚がその広大な世界を担っている。
しかし皮層感覚は人間の身体の表面にとどまっています。どちらが私たちの世界なのでしようか。
大森荘蔵氏という哲学者がおられました。私たちが見ている世界について、それが実在するか否か、様々な問いかけをした人です。特に視覚がもたらす世界のあいまいさを様々な例を挙げて検証している。
興味深いのは、視覚を疑った大森氏が触覚については何のためらいもなく信用しておられたことです。
大森氏は見えるけれども存在しないものの例として、幽霊を挙げている。幽霊は見えるけれども触れない。触れないものは存在しない。だから視覚は信用できない(『流れとよどみ』1981)、と。
私は少し意地悪な気持ちで考えます。触覚もあてになりませんよ。前に紹介した仲谷正史さんの作品に触れれば、無いものがあるように感じる。
大森荘蔵氏をこのような形で引用するのは失礼かもしれません。しかし私は大森氏ほどの哲学者ですら、触覚だけは信用していた、ということに強い興味をもちます。
仮想空間のリアリティがどれほど進歩しても、私たちは皮層が感じる世界から抜け出せない。
幼児期から少年期にかけての皮層接触の欠如が、最近の若者のこころに影を落としているのではないか、というのは山下柚実氏の『五感再生』(岩波書店 1999)での指摘です。
私が渡米した一九九三年には、日本ではピアスは女性が耳に着けているだけでした。しかし、何でも新しいことが始まるサンフランシスコでは、おじさんが耳、鼻にピアスしているのは当たり前でした。つくづく風変わりな街に暮らしてきたものだと思いながら、三年後に帰国すると、日本でもピアスが溢れていて驚きました。
さらにタトゥー、インプラントなど痛そうなものが次々に流行ってきました。山下氏は、今の若者は幼少期に皮層接触の機会が少なく、自己と世界の境界である皮層の認識があいまいになっている。そのため皮層にあえて様々な痛承や障害を与えて、境界としての皮層を再認識している、と主張されています。
もう一つ印象的なエピソードがオリヴァー・サックス博士の『火星の人類学者」(吉田利子訳 早川書房、1997)にあります。
そこでは自閉症と診断されながら、大学の助教授に就任している女性が紹介されています。その女性の対人感覚は、やはり普通の人と異なるのですが、彼女がストレスを感じたとき、不思議な機械を使うのです。それは彼女を「抱きしめる」装置です。
視覚と聴覚の世界がテクノロジーの発達で無限に広がっても、私たちは皮層が感じる世界から逃れられない。
私たちは、普通、自分の行動や感覚を理解したつもりでいます。これに対する最初の反論がフロイトによる無意識の発見と仮説です。
以来、既に述べた暗黙知の概念など、私たちが自ら意識していないこころの領域の存在は、少なくとも心理学的には疑う人はいません。しかし現実の生活では、この事実をしばしば忘れてしまうものです。
これまでも断片的に指摘してきましたが、私たちの意識や行動に暗黙知が影響を及ぼしている場合は、思いのほか多いのです。
そのような視点を文化人類学に持ち込んだ名著がエドワード・ホールの「かくれた次元』(日高敏隆、佐藤信行訳 みすず書房 1970)です。そしてそこで紹介されている有名なカルフーンの実験は、私たちが現在抱えている様々な問題の本質を示唆しています。
カルフーンはストレス社会のモデルとして、自然界より高い密度でラット(ドブネズミ)を飼育し、何世代にもわたってその行動を観察しました。
その結果、まず性行動に異常が現れました。オスの同性愛、サディズム、執勘な性的行動、あるいは逆に性的無関心などです。次いでメスの保育行動に異常が見られ、メスのがんの発生率が高くなりました。さらには野生では存在する、ラット独自の社会性も無秩序化していきました。
ラットは視覚が弱く、嘆覚や触覚が彼らの世界を作っています。その眼に見えない世界の異常がラット社会に大きな影響をもたらしているのです。
視聴覚が築き上げた人間の社会でも、皮層感覚は暗黙知として大きな意味をもっています。眼で見た世界では説明がつかないことが、皮層から考えると理解できる。
皮層が見る世界に思いをはせ、皮層が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます。
ーーーーーーここまで
終わり。