現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

気持ち整理1、論破

はい。ではスピ某所に対する恨みつらみ愚痴みたいなことを順を追って書いていこうと思います。

色々考えたんですが、

1、論破

2、モラハラ

3、アスペルガー

4、論痴

5、裏切り

順に1日1項目で書いていきます。書いていくうちにまた変えるかもしれませんが。

 

その前に

 

Oリングテストの原理原則と私が間違って覚えていた事 - 現実と妄想のはざま(改)

のことを書いた後に気づいたことがあるので、序章としてそれを書いていきます。

 

きっかけは、「この音とまれ!21」を読んでのことだったんですけど、上記の件で私がもっと頑張れば…あんな風にはならなかったんだろうかって後悔の思いが押し寄せてきたりしてました。

 

でもそれと同時に、今の自分にできるようになったことを過去の自分ができなかったからといって、それで何で過去の自分を責めることになるんだろうな?とも考えました。

 

過去にできなかった、考えられなかったことを、今の自分は考えられるようになれたっていうのは…こういうのを成長っていうんじゃないのかな…って。

 

過去の自分が、今の自分と同じようにできたならこんな風にならなかったかもしれないっていうのは、奢りでしかないような気がしました。

 

今の私が過去の私に戻ってどれだけ頑張ったとしても、境界線でいう私の決定権の範囲外である彼らや他の人たちがどういう反応するのかは分からないわけだし。

 

それらをも含めて、今、もっとどうにかできたんじゃないか、やめずにすむ方法があったんじゃないかって思うのは奢りだと今は思います。


「境界線」を意識するなら、あれ以上のことを過去の私はできなかったし、話をすることもできなかったし、自分の考えを伝えることもできませんでした。


多分彼ら的には聞きたくない話なんか聞きたくなかっただろうし、あれ以上のことを言えないままで良かった、とも思っています。

 


過去の私はその時できうる限りに頑張った。
聞かないことを選択したのは彼らなのだ。それ以上私にできることは何もない。
彼らは、彼らにとって都合の良い話しか聞きたくないのだ。

私がやめざるを得なくなったのは私のせいじゃない。彼らのせいだ。

 

 

それくらい図々しく言ってもいっかって思いました。
私が頑張っても駄目なんだよなぁ、人間関係って。とも思います。

 

 

本題に入ります。1、論破。

 

スピリチュアルな団体だったので、当然目に見えないものを扱っています。

凄く簡単に言うと、それを意識世界と言っていました。通常私たちは目に見えるもの触れるものに囲まれて生きていますし、この物質世界と呼べるものの中で現実を生きているというのが普通の認識です。

 

そして、その物質世界を支える内包するように存在しているのが意識世界、ということを教わってきました。

 

そして、MLが始まった2012年辺りくらいからリーダーの人の物言いにちょっと覚え始めて、それが何なのかずっと分からないままでいました。

 

こちらの記事を読んで、私が抱いていた違和感が何であったのかがやっと分かりました。

なぜ「論破」は無意味なのか。 | Books&Apps

 

ーーーー抜き書き

ー平行線を自分ルールで折り曲げるのが論破であるー

論破とは、「相撲しようぜ!」と言うジャイアンが、嫌がるのび太を問答無用に投げ飛ばすのと同じだ。相手はそんなこと望んでいないのに勝手に土俵に上げ、勝手に勝負を開始し、自分ルールで「俺の勝ち」だと言う。

 

たとえば「ハロプロは歌がうまい!AKBはヘタ!」という自分基準でAKB星人を論破したがるハロプロ星人がいるとしよう。

その人にとって勝敗はすでに決まっているから、相手がなにを言おうと「いいや、ハロプロのほうが歌がうまい」で反論できる。そして相手が黙った時点で高らかに勝利宣言をすれば、最高に気持ちいい論破になる(と思っている)。

 

でも、ちょっと待ってほしい。

自分のルールで勝手に勝負をはじめるのだから、自分が勝つのは当たり前だ。喜ぶようなことじゃない。勝率100%のクソゲーである。

そして、必ずしも相手が同じ土俵に立って同じルールで戦いたいと思っているわけではないことも、忘れちゃいけない。

ハロプロ星人は歌のうまいメンバーがいるからハロプロを好きなのかもしれないが、AKB星人は単純に好みのかわいい顔の子がいるから好きなのかもしれない。

それなのに勝手に「歌勝負」をもちかけ、自分のルールで相手を否定するのだから、そりゃあやられたほうは不愉快だ。

 ーーーーここまで

 

つまり、意識世界には意識世界のルール、物質世界には物質世界のルールがあって、本当は物質世界のルールでいかなければいけない所を意識世界のルールで通してしまっていた、ことが私の違和感の正体だった、ということを思いました。

 

そこに集っていた人たちは私含め、意識世界のことを知ってそれを物質世界で活用してより良くなっていきたいと考えていたと思っています。

 

でも足を重心を置いているのは物質世界なので、結局はよく分からない。でも意識世界のルールで行くべきみたいなことを言われたりしてたので、

他の人たちは「その人たちが発言するから間違いない(だって意識世界のことは分からないから)」ということで、信者のようになんでも鵜呑みにしていく。(いわゆる洗脳)

私は、物質世界のルールの中での答えが欲しいのに意識世界のルールの中で返ってくるので、段々この人に言っても仕方ない、ということで話さなくなっていった。

ような感じになっていきました。

 

本来なら、意識世界のルールを物質世界のルールにいくらか変換して伝えてくれるのがその人たちだと思っていたんですけど、今思うと彼らは彼らで意識世界のルールで何でも間違いない、と考えていたように私には見えました。

 

確かに意識世界は物質世界の根源的なものではあるけれど、そこには明確な境界線が存在していて、抽象的過ぎると現実を生きるために使うには具体的なものに変換しなければ何の役にも立たない、ということが今思えば起きていたような気がしています。

 

続く