11/7、題名変更
スピ某所で教えてもらった文章や本などを差し障りのない範囲で紹介していっています。
気持ち的には、「幸せを目標にしない、古代ギリシャ人の考え方」から続いているみたいな感じです。
MLで書かれていた抜き書きを掲載しておきます。長いです。
抜き書きーーーーーー
何のために生きるのか。何ものかのために生きる。
しかし何ものかのために生きることを通して、自分のために生きる。
しかし、自分のために生きることを通して他者のために生きる。
しかし、他者のために生きることを通して人類のために生きる。
ところで、人間は肉体の愛を通して子供を生むことがある。
そのことを通して、再び他者のために生きる。
そして、再び人類のために生きる。
ところで、人間は死ぬ。
さらに再び、死ぬことを通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。
総じて、奇矯な言い方に聞こえるだろうが、
何のために生きるのかといえば、死ぬために生きるのである。
これがレヴィナスの答えである。
***
自分のために生きる
倦怠・怠惰に陥った人間は、何に疲れ果てているのだろうか。
学校や会社に飽き飽きしているのだろうか。学校や会社に出かけると疲れ果てるから立ち上がれないのだろうか。
それはある。
しかし、学校や会社に出かけなくなっても疲れ果てている。それほど家族や社会からの抑圧はきついのだろうか。
それもある。
しかし、そのままでいいんだよと肯定されて自ら納得しても、疲れ果てている。その程度の肯定ではとても赦されはしないかのように、疲れ果てている。
とすれば、倦怠・怠惰に陥った人間は、あれこれの身体的な行為や実践に疲れ果てているのではなく、「実存そのもの」に、生存そのものに疲れ果てているのだ。
自分が生きているというそのことに疲れ果てているのだ。レヴィナスはこう分析している。
怠惰とは、重荷としての生存に対する、無力で喜びのない嫌悪である。怠惰とは、生きることの恐れである(中略)怠惰は生存を放り出すことを欲する。
怠惰は存在の否定であるが、それでもやはり存在の遂行である。怠惰の苦い本質は怠惰が脱走であることから由来するが、そのことは契約のあることの証しである。
私たちは「美味しいス-プ」、空気、光、光景、労働、観念、眠りなどによって生きている。これらは表象の対象ではない。私たちはそれによって生きている。私たちは「生活手段」によって生きるのではないし、人生の目標によって生きるのでもない。
私たちがそれによって生きる事物は、程度の差はあるが、ハンマ-、針、機会も含めて、享受の対象である。道具への依存は目的性を前提とし、他のものへの従属を示すのに対して、何かによって生きることは独立性そのものを表している。
この独立性は、享受と享受の幸福の独立性である。このような享受の構造は、倦怠・怠惰に陥った人間においても成立している。
外に出かけられず閉じこもっている人間は、狭い部屋に座り込むことを享受して生きている。
こんな具合に、人間はいつでも何かを享受して生きている。人生は無条件に幸福であり、「人生は人生への愛である」。
何のために生きるのか。長く生きるために。では、何のために長く生きるのか。できるだけ長く生きるために。
もうひとつは、価値的な限定をつけることである。何のために生きるのか。幸せに(健康に、楽しく、清く、正しく、美しく) 生きるために。
では、何のために幸せに生きるのか。幸せに生きるために、幸せに生きる。このとき、幸せに生きることは究極的目的かつ自己目的となっている。
人生論のほとんどは、人生の目的をエゴイズムに見出している。これに対して、レヴィナスはエゴイズムを乗り越えていくことになるが、エゴイズム(利己主義)に利他主義を対抗させるという仕方で乗り越えるのではない。
その乗り越え方は独特である。人生の短期的な目的ならいくらでもある。やりたいこと、やらねばならぬことは、いくらでもある。短期的な目的で人生は溢れかえっている。私たちは、そんな短い射程の目的に促されて行為し生きている。
レヴィナスによると、人生の短期的な目的は無秩序に堆積しているが、それらの目的をたどったところで、その終わりに究極的な目的があるわけではない。
何のために生きるのかという問いに対して、幸せに生きるためと答えても虚しい。幸せが実現不可能だからということで虚しいのではない。そうではなくて、現に幸せに生きてしまっているから、そんな目的を揚げても虚しいのだ。
幸せについては、いま、ここで享受している以上のことは、決してこの世では享受できない。この世で生きているというそのことが、幸せに生きることである。
何のためにいきるのかという問いに対して、幸せに生きるためにという答えも、ただ生きるためにという答えも、人生の実相にそぐわない答えである。そして、幸せのために生きることも、ただ生きるために生きることも、自分のために生きるエゴイズムである。
享受において、私は絶対的に私のために存在する。私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるいうことではない。私は独りであるが、孤独であるということではない。私は、無垢な独りのエゴイストである。
ほとんどの人生論は、人生の目的と人生の意味を自己実現や自己完成に求めている。今の自分とは違った自分、今の自分が肯定され直した自分、今の人生経路とは違った人生経路、今の人生経路が肯定され直した人生経路、それを探し求めるのが人生の目的と人生の意味であると結論している。
それは間違えてはいない。
というより、人間はいつでも、今の自分のために、別の自分のために、自己実現や自己完成のために生きてしまっている。これは単なる事実である。
それでも、何のために、自分のために生きるのかと問いが立つことがある。レヴィナスは、そんな問いを駆り立てるものを、戦前においては「逃走の欲求」と、戦後においては「形而上学的欲望」と呼んでいる。
倦怠・怠惰に陥った人間は、存在することを怖れている。生まれ落ちたときの契約に拘束されている。
倦怠・怠惰に陥った人間は、逃走の欲求に駆り立てられる。自分に疲れて果てるとは、別の人生経路に駆り立てられるというよりは、自分からの逃走に駆り立てられるいうことである。
自分の家や自分の会社に疲れ果てるとは、自分のものからの逃走の欲求に駆り立てられることである。ありうべからざる幸せを探しているわけでも、別の自分が欲しいわけでも、別の人生経路が欲しいわけでもない。
自分であること、自分が自分の人生経路をたどること、それを平和に享受することから脱出したいのだ。要するに、何のために、自分のために生きるのかという問いに駆り立てられているのだ。
レヴィナスは、逃走の欲求を、『全体性と無限』では形而上学的欲望と呼び直す。
***
来るべき 他者のために
人生の短期的な目的であれ、人生全体の目的であれ、それをどう見定めようと、人間はいつか必ず死ぬ。この厳粛な事実を見込んでおかないと、人生の目的と人生の意味について何を考えても、無駄になるように思われる。
第一に、死の意味についてである。「死んだら終わり」も、「死ぬまで頑張る」も、終わりを印す境界として死を表象している。
では、死は何を終わらせるのか。人間の生を終わらせる。
では、死は何を始めさせるのか。死んでいる状態、死につづける状態をはじめさせるのだろうか。そうではあるまい。
個々の人間にとっては、死ぬことは自分が無に帰すことだから、死は無を始めさせると思わざるをえない。だから、境界としての死は、生を終わらせ無を始めさせると見なされる。
しかし、レヴィナスは、こうした発想に異を唱える。そもそも、死ぬのは、私やあなただろうか。無に帰すのは私やあなたであると認めてもよいが、死ぬのは、あくまで人間である。私やあなたに現前する人間である。
ところで、私(という人間)やあなた(という人間)が死んでも、人間は無に帰すわけではない。人類が絶滅するわけではない。なぜか。個々の人間が死ぬ時期に、タイム・ラグがあるからだろうか。
そうではない。それはまったく浅はかな見方だ。私やあなたが無に帰すことと、人間が無に帰さないことの間には、もっと深い関係がある。
人間が人間を生むという生殖が働いている。考えるべきは、人間が人間を生むようになっているからこそ、私やあなたが死ぬということであり、私やあなたが無に帰しても人間が無に帰さないということである。
堂々巡りを断ち切り奇怪な閉域から脱出するには、生殖のことから考え直さなければならない。第二に、言葉の意味についてである。
「死んだら終わり」「死ぬまで頑張る」は、どこから誰に向けて発せられる言葉だろうか。それは、自分の人生全体を俯瞰する位置、自分の人生全体の終わりの位置から、そして、ひそかに自分の死後の位置から発せられている。
私自身の死と私の関係は、存在と無の二者択一のいずれの項にも収まらないカテゴリ-の前に私を立たせる。この究極的な二者択一の拒絶に、私の死の意味は含まれている。
一旦は、人間を雲のごとくに見なして、人間の生死を生成と消滅というカテゴリ-で捉えてみることにしよう。
この場合、ひとつの雲が消滅することは〈自然〉によって消されることであるように、ひとりの人間が死ぬことは何ものかによって消されることであると捉えることになる。
レヴィナスはこう書いている。
私たちは、より深い仕方で、また、いわばア・プリオリな仕方で、無としての死に接近しょう。つまり、殺人という受難をとおして死に接近しよう。
人間が死ぬことを、「絶対的暴力による闇夜の殺人」と捉えてみるのである。そして、レヴィナスは、いささか驚くべきことに、その殺人者は〈他者〉であると言う。
〈他者〉は超越の出来事と不可分であり、その〈他者〉が位置する領域から死が到来し、場合によっては、殺人が到来する。
死が到来する異様な時は、誰かに定められた運命の時のように近づいてくる。
驚異的な敵対的力能、私より狡知にたけ私より知恵のある力能、絶対的に他なる力能、そのことだけで敵対的な力能が、死の時の秘密を隠し持っている。
では、絶対的に他なる殺人者とは何か。
レヴィナスは、『ヘブライ語聖書』の一書『サムエル書』から引用する。
「永遠なるものは殺させ生かす」。
この永遠なるものとは、「敵すなわち神」である。
レヴィナスは、こう続ける。
「だからこそ、死は生命からそのすべての意味を奪うことはできない」
無神論的に言い換えよう。
人間が、ただ生まれて死んでゆくものなら、人間の死は、自然界の生成消滅の一齣にすぎなくなる。自然界の力で生まれてきた人間は、同じく自然界の力で殺されて死ぬというだけのことになる。
このとき人間にとって生老病死には内在的な意味と目的はなくなる。自然現象としての意味と目的だけがあることになる。雲が消えるように、風が通り過ぎるように、人間は死んでゆくというわけである。
このような死生観は、それほど悪くはない無常観ではあるが、人間の生老病死の実相を捉え損ねているのだ。なぜなら、人間は、ただ生まれて死んでゆくものではなくて、生まれて生んで死んでゆくものであるからだ。
しかも、人間が死ぬのは人間が生まれたものであるからと考えることはできない。生まれたものが、そのまま死なずに生きつづけても不思議はないはずだから。
だから人間が死ぬのは人間が生むものであるからと考えてみなければならない。おそらく、人間は、新たに人生を始めるものを生むものであるから、古い人生を終わらせなければならないのだ。
とすれば、もはや人間の生死を生成と消滅というカテゴリ-で捉えることはできない。人間の生死の意味と目的は、生殖の次元、肉体の次元において捉え返されなければならない。
レヴィナス『全体性と無限』の最終部に即して、行けるところまで行くことにしよう。
愛する者は何を求めているのか。レヴィナスは、未だ存在しない「崇高な食べ物」を求めているとする。
他者のために存在することは、何らかの目的性を示唆することであってはならないし、私の知らぬ価値を予め定立し価値づけることでもない。
他者のために存在することは、善であることだ。
他者のために存在することは、私の善性である。
他者のために生存するとき、私は自分のために生存するのとは別の仕方で生存するという事実、これが道徳性そのものである。
ーーーーここまで
終わり。