現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

米津玄師の楽曲「カナリヤ」MVの感想とちょっと考察2、後まとめ

2021/01/23、ちょこっと言葉を修正。

 

当初予定してた、米津玄師の楽曲「アイネクライネ」MVの解釈と考察とちょっと「眼福」の感想、を書こうと思っていたんですが、「カナリヤ」から上手く切り替えられなくて…(アイネクライネの動画の共有のコピーを取っていたら「カナリヤ」の考察動画に惹かれてついつい見入ってしまいまして)2として書こうかなと思います。

 

前の記事の最後の方で「アンビリーバーズ」感があるなと書きました。

>この曲のテーマと呼べるようなものは「否定による肯定」で、米津さんが「カナリヤ」の歌詞に込めた思いは「変わっていくことへの肯定」ということで、その繋がりからそう思ったのかなと思いました。「肯定」しか合ってないけど。

>それか、「カナリヤ」MVの最後の終わり方から、そう感じたのかもしれません。

 

全体的な思いとしては「変わっていくことへの肯定」なんですが、白い服の米津さん(生)と黒い服の米津さん(死)とで分かれた?ことで、少し白い服の米津さんの方に「否定による肯定」の感じが見て取れるような気がしました。

「(死への)否定による(生への)肯定」という意味です。

コロナでなくても、人はいつか皆んな死ぬので、あまり意味はないものなのかもしれないですが。

 

全体的な色調で「至宝のつながり」と書きましたが、その「人とのつながり」は、生きている時にしか得られないと思うからです。

 

*****

続きを書いていきます。

というかもうまとめなんですが、

 

全体的な思いとしては「変わっていくことへの肯定」だけど、

黒い服の米津さん(死)の方には、死や死後の、別人になるもしくは別の人が新しく生まれるという変化ありきでの「変わっていくことへの肯定」であって、

白い服の米津さん(生)の方は、あくまでその生の中での「変わっていくことの肯定」としてであって、“死”はその人生の終わり(END)であると同時に、得ることができた「その人とのつながり・至宝のつながり」をも終わらせる(END)の意味であり、そのために「(死への)否定による(生への)肯定」が強く出ている、のではないかと思いました。

 

エンドロールの後の最後の2回出てくる“END”は、そういう意味合いもあるのかなとも考えました。

 

MVに映っている川は三途の川の意味合いも含まれていて、最後に川のせせらぎの音と鳥のさえずる声が同時に聴こえてきましたが、それは「カナリヤ」に本来?の意味に加えて、このMVでは生と死の境界線を超える存在としての意味合いが持たされているから、かなと思いました。

 

でも、その生と死の境界線を越えてまでの“変化”には、人は耐えられない、と思うのです。

…それでも『見失うそのたびに恋をして、確かめ合いたい』と願うように、相手を自然と見つけられたら…それは凄い奇跡ではないかなと思いました。

『誰も二人のことを見つけないとしても』

 

曲の最後に色んな人が想いを馳せるように空を見上げるシーンがあって、白い服の米津さんも最初はそういう風に見上げていると思うんですけど、最後の方ちょっと意味合いが変わってきてる?と思えるような眼差しになっているように感じました。

目線の関係だと思うんですけど、「想いを馳せる」ように見るだけなら、そこまで黒目は端に寄らないのではないかなと思ったんですよね。すんごい細かいことをいってますけど。

空を“くまなく”見てるように感じました。それは見守るというより…見張る?に近いのかなと。

*ひょっとしたら、生と死の境界線を越えられた「至宝のつながり」を見つけたい、もしくは探していると思ったら素敵だなと考えました。

 

あくまで私なりの考察ですので(考えすぎってところもあると思うし)真に受けないでくださいね。

終わり。