現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

【閲覧注意】米津玄師、楽曲「アンビリーバーズ」MVの解釈と考察

ゆえのです。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

 

さて今回は、米津玄師の楽曲「アンビリーバーズ」MVの解釈と考察をしていきます。かなり長いです。

題名に【閲覧注意】と付けたのは、解釈を進めていくにつれてこの楽曲を好きな方たち、救われた人たちには、かなり辛辣に受け取られる可能性が高い言葉たちが出てきてしまったからです。

 

米津玄師、ハンドマイクで歌唱。新曲“アンビリーバーズ”MV公開 (2015/08/21) 邦楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 こちらのページの言葉を一部抜粋しておきます。

ーーーーーー

今作は、YUKIなどのミュージックビデオを手掛けている、アートディレクターの平野文子氏監督との初タッグになる。

平野文子氏コメント
このMVには意味となる核はありません。
見てくれる方が自分の気持ちに触れる部分で好きに感じてくれればいいと思っています。

ーーーーーーここまで

とありますように、ここで書いていることはあくまで私の気持ちで感じたこと、考えたことを解釈考察として書いているだけです。

あまり真に受けないでください。

 

タイトルの「アンビリーバーズ」の意味は『不信心者(信仰の無い者)』『無神論者』という意味で、否定による肯定、何かを信じないことによって反対側にあるものを圧倒的に信じる。というのがタイトルの「アンビリーバーズ」のタイトルに込められた意味だそうです。

メジャー4枚目のシングルとして、2015年9月2日に発売されました。

解釈・考察の割合は、映像から70%歌詞から30%です。

 

youtu.be

 

歌詞ーーーー

1

ヘッドライトに押し出されて 僕らは歩いたハイウェイの上を
この道の先を祈っていた シャングリラを夢見ていた

誰がどんなに疑おうと 僕は愛してるよ君の全てを
もしも神様がいたのならば 僕と同じことを言うだろう

何されたって 言われたっていい
傷ついても平気でいられるんだ
だから手を取って 僕らと行こうぜ
ここではない遠くの方へ

今は信じない 果てのない悲しみを
太陽を見ていた 地面に立ちすくんだまま
それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく
全て受け止めて一緒に笑おうか

2

テールライトに導かれて 僕らは歩いたハイウェイの上を
気がつけば背負わされていた 重たい荷物を捨てられずに

誰のせいにもできないんだ 終わりにしようよ後悔の歌は
遠くで光る街明かりに さよならをして前を向こう

貶されようと 馬鹿にされようと
君が僕を見つめてくれるなら
キラキラ光った パチパチ弾いた
魔法だって使えるような

今は信じない 残酷な結末なんて
僕らアンビリーバーズ 何度でも這い上がっていく
風が吹くんだ どこへいこうと 繋いだ足跡の向こうへと
まだ終わらない旅が 無事であるように

 

そうかそれが光ならば そんなもの要らないよ僕は
こうしてちゃんと生きてるから 心配いらないよ
帰る場所も無く僕らは ずっと向こうまで逃げるんだ
どんな場所へ辿り着こうと ゲラゲラ笑ってやろうぜ

 

今は信じない 果てのない悲しみを
太陽を見ていた 地面に立ちすくんだまま
それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく
全て受け止めて一緒に笑おうか

ーーーーここまで

 

解釈と考察を始めます。

まず本気で聴くようになって初聴きで思ったのは、そんなに好きじゃない、でした。このMVが表しているものは「正当化」だと感じたからです。それが私の意見です。

正当化の意味を載せておきます。

正当化とは、道理にかなっていないものをこじつけて、かなっていると主張することです。

 

論拠は2つあります。

1つ目は、出てくる狼の動向

2つ目は、歌詞には載っていない言葉を歌っている部分がある

です。

 

このMVに出てくる狼は米津さんの本「かいじゅうずかん」に載っている「狼人(ろうにん)」というかいじゅうです。

この狼人は最初車に乗って運転していますが、MVの0:17辺りの所で別の狼人が一心不乱に走っているのを目撃します。その後から車を運転している狼人の視界がぐにゃ〜と歪んでいく映像になっています。

これは、車を運転している狼人が自分の力で走っている狼人を見たことで、自分の今の状態がおかしいこと、車に乗って車の力を借りて前に進んでいる自分の世界観、価値観が大きく壊れていったことを表しているのではないかと考えました。

 

そして彼は、車から降りて自分の力で走り出そうとしますがあの時見た狼人のように上手く走ることができません。それでも走ることをやめないのは、「自分の力で一心不乱に走っている」のが狼人としての正しい姿だと自分の中で思い込んだから、だと感じました。

本当は車などの補助具を使えば、自分の力ではなくても一心不乱に走ることはできるから、最初に車に乗っていたのだろうと推測するのですが、「あるべき正しい姿」を見てしまったために「自分の力で」というところに重点を置いてしまって、車に乗って走っている自分を認められなくなってしまったのだろうと推測しました。

 

それがこのMVの物語の根幹だろうと考えました。

そして彼は、どうやっても「あるべき正しい姿」になれない自分を認められず、「正当化」を始めたのだと思いました。

それが>今は信じない、果てのない悲しみを  の歌詞にかかってくるのだと思いました。

「光る爪痕」は、ある意味正当化の光として機能しているのだろうと考えました。

 

 

そして>太陽を見ていた 地面に立ちすくんだまま の歌詞に続いていくんですが、ここの部分を聴いていたら…最初「地面」の言葉が「自分」という言葉にしか聞こえなくて、ですねー。あっれー?って思って何度も聴いてみたんですが、「自分」という言葉に聞こえる時もあれば、歌詞通りの「地面」という言葉に聴こえる時もあって…なんだこりゃって思って考えてみました。

そして、「自分」と聴こえる時は真ん中の音がにごっているのを聴いていて、「地面」と聴こえる時は真ん中の音の「え」の母音を捉えているのだろうと推測しました。

>今は信じない 果てのない悲しみを
>太陽を見ていた 地面に立ちすくんだまま

の歌詞は後ろの方でも出てくるので、そこと聴き比べてみると、注目している「じめん」の「め」の音は本来それほど「にごる」という要素はないはず、ということに気づいて、

それなのに「じめん」が「じぶん」に聴こえてしまうほど音がにごって聴こえる、ということは、最初の方は、米津さんは正確には「じべん」と歌っているのではないだろうか、と推測しました。

まあコメント欄でも検索して見たページなどでもそんなこと(『自分』と聴こえる)を言っている人は誰もいなかったので、私の耳が悪いだけ、という可能性もあります。

 

でも面白いのは、
>今は信じない 果てのない悲しみを
>太陽を見ていた 自分に立ちすくんだまま

でも全然意味は通るということで、むしろ私が上記で書いていた意味合いがこちらの方が強くなる、ということです。

「太陽」は誤魔化すことのできない現実を指していて、「自分」は「自分の力で一心不乱に走る」のが狼人としての正しい姿には絶対的になれない自分のことで、それで「立ちすくんだまま」一歩も動けなくなってしまう、だからこその「正当化」なんだろうと考えました。

ついでに言うと、このサビに入る前の1:17頃に米津さんが胸から上のアップでボヤけて映るシーンが一瞬あるんですけど、どーも笑っているように見えるんですよね〜。カメラの少し上から映しているような角度と口角が上がっていることでそう見えるだけっていうことなんだろーけど、この「隠し要素」を見つけてしまうと…直前であるだけにワザとかなぁ〜?なんて、邪推したくなってしまうんですよね〜。

 

まあそこは横に置いといて、サビの最後の>全て受け止めて  一緒に笑おうか  の部分は、「誤魔化すことのできない現実」を前に「一歩も動けなくて正当化してしまう」自分も「全て受け止めて一緒に笑おうか」という意味だと感じました。

 

そして、2番のサビの歌詞にいきます。

>今は信じない 残酷な結末なんて
>僕らアンビリーバーズ 何度でも這い上がっていく

の「残酷な結末」の意味ですが、上記で書いた

>「誤魔化すことのできない現実」を前に「一歩も動けなくて正当化してしまう」自分も「全て受け止めて一緒に笑おうか」

といくのはいいんだけど、それを続けてしまった後の結末が残酷になるってことを指しているんだろうと思いました。

コメント欄でもありましたけど「この曲ってニートの人向けの感じする」ってあって、この部分で言いたいことを分かりやすく端的に例えているなと感じました。


>風が吹くんだ どこへいこうと 繋いだ足跡の向こうへと
>まだ終わらない旅が 無事であるように

>そうかそれが光ならば そんなもの要らないよ僕は
>こうしてちゃんと生きてるから 心配いらないよ
>帰る場所も無く僕らは ずっと向こうまで逃げるんだ
>どんな場所へ辿り着こうと ゲラゲラ笑ってやろうぜ

と勇ましく歌ってはいるものの、本当に「残酷な結末」を目の前にした時にこの歌詞の通りに笑える人が果たしてどれだけいるかなってことを思いました。

何だかんだ言っても結局自分で生きていく力を身につけることが、この現実では肝要なことであるのではないかと感じました。理想論だなとは思いますが。

上の方で

>「光る爪痕」は、ある意味正当化の光として機能しているのだろうと考えました。

と書きましたが、その爪は空を切るだけで実際の現実には何も残すことはない“まやかしの爪痕”だと、ということもできます。でもそれを「正当化している光」だと理解できていれば、そのまやかしの爪で誰かを傷つけることはない、とも言えると思いました。

 

>今は信じない 果てのない悲しみを
>太陽を見ていた 地面に立ちすくんだまま
>それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく
>全て受け止めて一緒に笑おうか

そして、最後の歌詞では「地面」と歌っているので(気をぬくと『自分』と聴こえることもあるけど)「太陽」の誤魔化すことのできない現実と、「地面」の自分で生きていく力を身につける=自分の力で走っていくことが肝要である現実を前に、立ちすくんでいても仕方ないから、「正当化している自分」を否定することでその「現実」を肯定しようか、っていうことを言っているのかなと思いました。

つまり最後の歌詞では

>(現実を)全て受け止めて一緒に笑おうか

ということを言っているのではないかと考えました。

 

何でそういう風になるのかというと、

米津玄師アンビリーバーズの歌詞と意味 | トレンド情報遊び

のページの抜粋ですが、

ーーーーーー

「何かを信じなければならない。何かに向かって、自ら能動的に行動していかなければならない。そう考えると自分みたいな人間は“アンビリーバー”なんだろうと思うんです。」と米津玄師は言います。

“アンビリーバー”というと?

「つまり何かを信じない者。そのままでは何かを信じないけれど、それ以外のものを否定することでその何かを信じざるを得ないようにするというか。
そういう面倒くさい手順を踏まなければ生きていけない人間なんだろうなっていう実感があって。この曲は「アンビリーバーズ」っていうタイトルから作ったんですけど、自分の本質的な部分をすごく正確に表した曲だなと思っています。」
と米津玄師。

ーーーーーーここまで

>そのままでは何かを信じないけれど、それ以外のものを否定することでその何かを“信じざるを得ないようにする”というか。

その何かを「信じざるを得ないようにする」って何?……これを成立させるためには、「否定による肯定」を複数回(つまり2回)やらないといけないんじゃないかと考えました。

つまり例えていうなら、黒を否定することで白を肯定するけど、最終的に肯定したいものは黒だから今度は白を否定することで黒を肯定する、ということ、じゃないかと。

 

アンビリーバー“ズ”っていうのは…歌詞に“僕ら”って出てくるから人数のことだと思われているけど、実は「否定による肯定」の回数のことを指している、んじゃないかと思いました。
だから…狼人は最後に朝日に溶けていかなければならなかったんだ、とも思いました。

「太陽」の誤魔化すことのできない現実の“光”に撃ち抜かれる、否定されることによって「現実」を肯定するために。

おわり。