ゆえのです。
いつも読んで頂いてありがとうございます。
今回は、RCメソッドで習った
「存在の肯定(命の価値を認める)」と「個性の肯定(行動の価値を認める)」と、
「誇り」を持って生きた方がいい理由 | 離れられない『モラハラ』『身近な人からの攻撃』対処の超裏技!
のモラハラカウンセラーjoeさんの記事に書かれている、
・この世には「普遍的な価値」はない
・要するに「生きる価値」「生きる意味」「存在価値」というものはない
って両立するんじゃない?っていうことを考察してみようと思います。
仰々しい感じもしますが、お付き合い頂ければと思います。
RCメソッドで、「存在の肯定(命の価値を認める)」と「個性の肯定(行動の価値を認める)」という二大価値を認めることが重要なことだと私自身は受け取ってきたのですが、正直なところ「存在の肯定(命の価値を認める)」だけじゃ何でダメなんだろうなということを思っていました。
そして、RCメソッドを習ってからjoeさんの
・この世には「普遍的な価値」はない
・要するに「生きる価値」「生きる意味」「存在価値」というものはない
という考え方?をちゃんと理解してみて、
「価値」という言葉の意味を簡潔に言うと「@@より良い」ということだと認識してみると、「存在の肯定(命の価値を認める)」は“死んでいる”ことより“生きている”ことの方がそりゃ良いよね、ということになってくると思いました。ここに存在するということは確かに“生きている”からそうなっている訳ですから。
でも、生きている人は存在しているからここに居て見える状態になっていて、死んでいる人は存在しないからここには居なくて見えない状態になっているので、見える人は皆んな生きている人だから、逆に生きている価値(@@より良い=死より良い)の意味は見えなくなるんじゃないかということを考えました。
前に見た漫画の台詞で「たくさんの種類の花が咲いている庭を眺めて、どの花が好きか聞かれた時に『全部好き』って答えるのは「どれも同じ」って意味に近い気がしないかい?」とあって、上記で言っていることと意味は同じなんですけど、
私は生きている、他の人たちも生きている。“同じく生きている”からそれが普遍で「皆んな同じ」なら、生きていることに『価値』はなくなる、んだなということを思いました。
価値とは、@@より良い、という意味だから。
だから「個性の肯定(行動の価値を認める)」が必要になってくるんだろうなぁということを思いました。
競い合うことも必要になってくるんだろうなぁってことも思いました。
だからなんだっていう感じもしますが、生きている『価値』を見失うのは人間の性?業?なのかなぁっていうことを考えました。
取り留めないですが、終わり。