現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

【閲覧注意】“厄介”な人たちが推しに求めるものとは?

ごきげんよう、ゆえのです。

読んで頂いてありがとうございます。

今回の記事は自戒も込めて書いています。

 

題名に書いた“厄介”な人たちとは、以下のツイートにあった

「オタクが推しを見たいのではなく“推しに見られたい”になった瞬間からそのオタクはファンではなく厄介(な人)になる」

から取りました。

 

 

厄介の意味はこちら。

抜き書きーーーーーー

やっ‐かい〔ヤク‐〕【厄介】 の解説
[名・形動]
1 めんどうなこと。扱いに手数がかかり、わずらわしいこと。また、そのさま。「―なことに巻き込まれる」
2 めんどうをみること。また、世話になること。「親の―になる」
3 他家に寄食すること。居候 (いそうろう) 。

ーーーーーーここまで

ここでの意味は、1のめんどうなこと。扱いに手数がかかり、わずらわしいこと。また、そのさま。になると思うんですが、何で“推しに見られたい”と思うことが「厄介」なことになるのかを考えてみました。

 

“見られたい”ということは、対象の推しに自分の存在を知って欲しいとか認知されたいということになると思うんですけど、それが行き過ぎると「ガチ恋」とかになって厄介になるのだというのはなんか分かります。

でもそこまで行かないまでも「ファンが“推しに見られたい”になった瞬間から厄介になる」とはどういうことだろうと考えていましたが、何となく…かなり前に見たこの方のツイートを思い出しました。

 

 

注目したのはこちらの言葉です。

>だから、推しというのは、自分がその対象を支えて「やって」いるという感じがあるのだろうか。

 

それと、上記で書いた

“見られたい”ということは、対象の推しに自分の存在を知って欲しいとか認知されたいということになると思うんですけど、

の二つが合わさると、

支えて「やって」いる自分を知って欲しい認知されたい、ということになって、どどのつまり

 

「対象の推しに、自分が支えてやっていることを“感謝されたい”」

という思いになって、それが“厄介”という言葉で表現されるのではないかと考えました。

 

対象の人を推すのは、100%自分のため、だと思うんですけど、それに対して見返りを求めてしまうと“厄介”になるのかなぁと思ったりもしました。自分も気を付けたいと思います。

終わり。