ごきげんよう、ゆえのです。
前回の記事の続きです。前の記事を読まないと意味がわからないと思うのでできるだけ前の記事から読んでください。
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話は少し変わって、20年以上前になるんですが「地球交響曲〜ガイアシンフォニー」という自主製作映画を見たことがありました。基本的に人の生き様を紹介するドキュメンタリー映画で、何作かシリーズがあって私が知った時は5まで製作されていて、その中の2と3を見たことがあります。
その中で、野生のゴリラを対象とした研究をしている女性研究者のエピソードがあって、その映画の中で野生のゴリラとの邂逅を、確か女性研究者の人が差し出していた手の上にあった食べ物?を野生のゴリラがその手から落とした、と言うことを口ぶりや手振りで説明しているシーンがありました。
私はそのことに対して特に何の違和感も感じなかったのですが、終わってからその会場を出る際に、同じ映画を見ていた他の見知らぬ女性がそのシーンに対して、「実際にそういう場面を映像として見られると思ってた〜!」って言う不満を口にしているのが聞こえたんですね。
私は、それにすごく驚きました。(この人は何を言っているんだろう!)と。ドキュメンタリー映画なんだし、そんなシーンなんて撮れる訳もないことをこの人は理解していないんだろうかと凄い考えました。
だってその人が望んでいる場面を撮るためには、「カメラが回っている前で野生のゴリラに演技をしろ」と言っているのと同じだと思うからです。自分が見たいからそれを見るために、目に見える映像として、それをさせろと言っているのだということを全然理解していないんだなと思いました。
娯楽提供者が「娯楽」として差し出したくないものまで提供しろと望むのは、上記のことと同じように思えました。
娯楽とは何か?の意味は「一般に人間の心を楽しませ慰める活動をさす」で、娯楽享受者の心を楽しませ慰められる?望むことをしろ、と要求することが「普通の人間として扱われない事がある」に繋がっていくのだろうなと考えました。
今の世の中ではほぼ全てのことが「娯楽化」になってしまっているようにも感じます。「思想」とか「哲学」などもそのままの形ではなく「娯楽化」してしまっているような…。
戦後の日本の方向性の成果と言えるのでしょうけども。
例えば、
「推し」のその人独自の思想や哲学が現れている文体や語彙に触れることで「推し」のことがより深く理解できた気がして「楽しめる」
とか。
そんな楽しみ方も多分アリ、とか書いている人も居ましたが私は違和感を感じました。
そういう風に「楽しむ」ことで対象である1人の人間である「推し」をより娯楽化させているように私は受け止めています。
私自身は、長い時間感情を押さえつけてきたこともあってか「楽しい」という感情を感じにくいところがあります。過去に整体の先生に体に触っていてもそういうのが分かると言われたことがありますし、改善できたとはちょっと言えない状態でもあります。
あまり娯楽を必要としてないところがあるし、特殊な例だとは思いますけど、
人のそういう欲というかある種の怠惰さに、際限がないことは一応理解できるつもりです。
自分に対しての戒めの意味も込めてこの記事を書いておこうと思いました。
終わり。