2019年2月ころに「天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ」という本を読んでいて、今ごろですがこの本を読んで気づいたことを書いていきます。
この世界は、天才と秀才と凡人でできている、のだそうです。
天才ー「創造性」で評価される
秀才ー「再現性」で評価される
凡人ー「共感性」で評価される
秀才の「再現性」っていうのがよく分からなかったんですけど、記憶の中にある出来事を思い出してなんか分かるようになりました。
また20代のころ、私は地元のとあるアマチュア劇団に入っていました。
その時に、ワークショップに同じ劇団員の人と参加して、効果がある柔軟体操の仕方を教わってきました。今では常識なのかもしれないんですが、足を伸ばして上半身を倒してやる時に、反動をつけずに自分の体重を利用してじんわりゆっくり伸ばしていくといいっていうことを教わりました。
そして次の劇団の練習日に、さっそく実践しようと思って私はやったんですけど、一緒にいった人は、元の反動をつけての柔軟体操をしていて…。
はっきりいって凄いカルチャーショックでした。
普通、教わって実践の機会があったならやってみるものじゃないのかな、と思っていたので。
その時、その彼がどういう気持ちで?教わったことを実践しようとしていたのか、それかもう忘れて自分のやりやすいかまたはやってきたやり方で、何も考えずにやっただけなのかわかりませんが。
私は、「ああ、再現性がないってこういうこと」と思いました。
そう考えると、「変化」や「変わっていくこと」って3つあるのかなということを考えました。
・自分が意図しない変化
・自分が意図した変化
・外的要因によって変わらざるを得ない変化
昨今のコロナウイルスによる変化は、1番目と3番目の合わせ技みたいなものですが、ここまであからさまでなくても個人の人生においても、自分が意図しない変化は日常茶飯事にあるんですよね。年齢を重ねていくのも1つの例ですが。
私は、そういう意図しない変化は嫌だなとたぶん思っていたので、どちらかといえば再現性がある方なのかもしれませんが、そうするとまた別の問題になるなということも最近気づいてきました。
「永遠」に変わらないことになってしまう、ということです。
再現性があるってある一面ではそういうことでもあるんだなと思いました。
ちょうどいいので例に、米津玄師さんの「感電」で
「きっと永遠が どっかにあるんだと
明後日を探し回るのも悪くないでしょう」
って歌詞があるんですが、意味が正直よく分からないんですよね。
惰性のように「永遠」に浸かってきてしまった感覚があるからかなと思いました。
まぁ単なる惰性で生きてきてしまっただけ、という話でした。