2021/01/23、ちょこっと言葉を修正。
昨日、米津玄師の楽曲「カナリヤ」がMVとして公開されました!
ので、その感想を書いていきます。
このブログでも、9月半ばに歌詞の解釈と考察を記事にしてましたが、
米津玄師、楽曲「カナリヤ」の解釈と考察 - 現実と妄想のはざま(改)
MVのサムネを見た瞬間に正直いって、やっぱその方向だよねー!ウェーイ!っていう感じになって、ハイタッチしたくなりましたけど(笑)
でもそれだけでは留まってないのが、このMVの凄いところ。
雑誌などインタビューで語っていた「カナリヤ」という楽曲の本質を余すところなく表現されているなと感じました。
私のは、表面をなぞっているだけだったなぁと。
この楽曲がMVになるなら、もっと二人の世界観だけになるかと考えてました。
今回のMVは、今までのと違ってリアルさを追求しているものになっているなと思いました。
割と幻想的というか夢見系というか、日常生活の営みが表現されているものってほぼなかった記憶があるので、ちょっと生々しく感じました。
私が前の記事で言葉を濁した所などもしっかり描写されていて…さすが表現者の方々!だなぁということを思いました。
だからこその是枝裕和監督だったのかなということも考えたりもしました。「万引き家族」くらいしか知らないのですが。
これは…全体的な色調が変わるなと思って考えて、「至宝のつながり」だなと思いました。
素晴らしかったです。
そして、米津さんが白い服と黒い服で歌っているということを少し考察してみようかなと思います。
単刀直入に言うと、これは生と死を表しているのかなと思いました。
白い服の米津さんが「生」で、黒い服の米津さんが「死」です。
最後のサビのところで、米津さんの背後でカナリヤが一度落ちて(死んで?)黄色い円?輪溜まり?の中から蘇るような描写があるんですが、それを見て、以前に書いた「内田樹、中沢新一「日本の文脈」〜贈与」の抜き書きの一文を思い出しました。
>人間は何もないところにぽこっと誕生したわけではなく、誰かが自分の場所を空けてくれたので、そこにできたスペースに存夜することができた。
>自分たちがここに存在するために、それ以前にそこにいた何かが姿を消した。その「もう存在しないもの」が、私たちが生き、存在することを可能にしてくれた。
つまり黒い服の米津さんが表しているものは、「死+再生」なのかなと。再生されるものは、違う人間または違う魂ですが…。
米津さんがこの本に書かれているようなことを考えてのことかは知る由もないですが。
あと、ちょっと「アンビリーバーズ」な感じがするな…と思いました。
米津玄師の楽曲で、2015/0815にMV公開されているものです。
この曲はまだ感想も書いてないし解釈と考察もしていない、2、3回見ただけのものです。
この曲のテーマと呼べるようなものは「否定による肯定」で、米津さんが「カナリヤ」の歌詞に込めた思いは「変わっていくことへの肯定」ということで、その繋がりからそう思ったのかなと思いました。「肯定」しか合ってないけど。
それか、「カナリヤ」MVの最後の終わり方から、そう感じたのかもしれません。
それか全体的なバランスとして、「アンビリーバーズ」の方は狼(のぬいぐるみ)が爪で空間を裂いていくのが印象的なんですが、そこから突如リアルとして米津さん率いるバンドの人たちが出てくるMVなんですが、幻想的80%リアルさ20%みたいな割合だとして、
「カナリヤ」の方は、上記で書いた米津さんの役割的?立ち位置的?なものやカナリヤの描かれ方とかを考えると、幻想的20%リアルさ80%、とほぼ真逆になることから、そう感じたのかなとも思いました。
終わり。