現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

自分は自分が嫌い:発達障害とHSPのこと、10、負性

ぶっちゃけて言うと、自分の中にある発達障害の部分とHSPの部分も、正直言うと嫌いです。

たぶん父親がそうで、その弟(叔父)もその可能性が高くて、それらの人たちの言動とか行動に苦しめられてきた所もあるからっていうのもあるし、自分でもよく分からないままその部分に苦しんできたから、という両面から、嫌いという感情が発生していると思っています。

 

HSPに関しても、人とは違う自分の敏感な所が弱さとしてしか捉えることができていないので、それが嫌で嫌で仕方ありませんでした。

 

でもこれらの場合はいくら嫌いでも付き合っていくしかないので、ある意味諦めて付き合っていこうと思います。

 

 

そういうモノに対して(厳密にはもっと幅広いものを指していたけど)スピ某所では「負性」と読んでいて、富の源泉であるもの(マイナスの富)として捉えていましたね。

 

2012/9月頃の「負性」の投稿を抜き書きーーーー

◉すべて(一切合切)は自己の裡にある。
◉人生の美しさを困難にしている一番の原因は、表層意識と深層意識とのねじれた関係にある。このねじれを解消するために自己エネルギー創造→自己内共創造を使う。この世を去る時まで、継続と努力によって実現する。
(2012下期 月曜日/朝のキーフレーズより)

表層意識と深層意識のねじれた関係や歪み、それが内包する矛盾は「在る」ことが抱える大問題のひとつです。

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しかしその前に片付けないと意識構造の問題に進めないことが厳然と横たわっている。

それは、表層意識内のねじれた関係や歪み、内包する矛盾です。つまり私小説的な問題。

人の美しさの筆頭は「勇気」であると思います。そして物質界を生きることはあらゆる意味において「勇気」によって得られるものだと思います。

しかしそれだけにこの「勇気」は繊細に取り扱わなければならない。「勇気」の裏側にあるものも同時に見つめていなければならない。そう思います。

その裏側にあるものを一言で言えば「負性」「負(マイナス)です。

これをもっと言い換えれば「ダメさ加減」。

プライドというも矜持というも勇気というも、その裏側にある「負性」に対する認識が無ければねじれてしまう。

アゲアゲやポジティヴの裏は「負性」。

人生とは心の深みにある何かに気付いていく道行きだと言うことも出来るでしょう。ビジョンを持つ、こうありたいああありたいと思う、その思いの裏側にあって人生に"微妙な違和感"を生じさせている何か。

自分が苦しんでいることさえ意識できない「苦しみ」。

それを「負性」と云います。とても微妙です。気付くことが難しい何か。それが「負性」。

しかしこれを「ダメさ加減」を見たくないのが人情といって済まされるような軽い問題ではないと思います。

まず、表層意識に厳然としてあるねじれは、この心の深みにある「負性=ダメさ加減」を見ようとしないこと、理解しようとしないことに由来しています。

これは表層の表層にある「ダメさ加減」についての話ではありません。表層の深みにある「ダメさ加減」です。

「わたしは自分のダメさくらい承知してます。」、いや全然承知してはいないと思います。

自分をよく見つめている人であってもなかなか気付けない困難。

自分を見つめること、それそのものの困難。

ただ自分を見つめる以外に「方法」と云えるほどの「方法」のない困難。

見つめることをサボればなおさらです。

自分の考え方、思いを変えるだけでは届かない「負性」と云うしかない何か。

***
人生は自己という波に寄り添い離れずに歩み続けることですが、それは人生をいつも「負性」から始め、「断念」を通して超えていくということなのだと思います。

どうすれば「生」は輝くのでしょうか。

それは、「負性」と云うしかない何かによって始め、「断念」によって超えていくことから得られるものです。

「われわれはねじれている」という無自覚の自覚、まずそこから始めましょう。

この私小説的課題、とても難しいです。だから少しづつでいい、ほんとに少しづつでいいと思いますが、そこに意識を向け続けることは忘れないでほしいと思います。

あなたが人生と離れず、あなたから「無自覚の苦しみ」が去るように。

ーーーーーーここまで

 ちょっと題名の主旨と変わってしまったけど…。

終わり。