ゆえのです。
いつも読んで頂いてありがとうございます。
4つ前に書いた
『君の命の誇りを示せ』と15、微細なアウシュビッツ - 現実と妄想のはざま(改)
の記事の「微細なアウシュビッツ」って何だろう?ということを考えてみました。
それに関連して、アダルトチルドレンの本質も分かったような感じがするので、題名に【超閲覧注意】と付け。閲覧注意よりも上だと感じたので前に“超”を付けてます。
結論から言うと、「こころに宿る“微細なアウシュビッツ”」とは『生殺与奪』のことだろうと考えました。
生殺与奪の意味を書いておきます。
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せいさつ-よだつ【生殺与奪】
生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分の思うままになること。絶対的な権力を握っていることをいう。
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つまり、生殺与奪の権利を“自分が”握っていることに悦びを感じるまたは気持ちいいと思う、ということが“微細なアウシュビッツ”の正体だと感じました。
前の記事で抜き書きしている投稿から、「微細なアウシュビッツ」の部分だけをまた抜き書きします。重要な所には*****を付けました。
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『夜と霧』は、アウシュヴィッツを生き抜いたユダヤ人精神分析学者フランクによって執筆された。一緒に収容された家族は命を落とし、たった1人残されての生還だった。
『夜と霧』は世界中で読まれ続けている。これほど過酷な状況が描かれた書物がなぜ広くロングセラーになるのか。
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ドキュメント、社会的、思想的、愛…、いろいろな角度で読まれて来たことだろう。
だが、もっとも核をなす理由はそんなことではないと思う。人はこころに微細なアウシュヴィッツとその収容者を宿している、そしてそれを自身が知っている、だから読んでしまうのだ。
アウシュビッツの悲惨、過酷に瞠目するなら、それは自己に向ける視線である必要があると思う。われわれにも、同じ悲惨・過酷が棲むことに気が付くべきだからだ。
「そうかもしれないがアウシュヴィッツほど酷くはない」、と思うならもう一度問い直したほうがいい。こころに宿る微細なアウシュビッツは、あのナチスのアウシュヴィッツほど悲惨でも過酷でもないのか、それは本当か?と。
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「被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。」(フランクル)
ーーーーーーここまで
そして、なぜこの「微細なアウシュビッツ」がアダルトチルドレンに繋がるかというと、人は親になった時に子供の“生殺与奪の権利”を一時的に預かることになると私は考えたからです。
こちらの記事で書かれていることが、子育ての基本にして理想的なことだと私は思っています。
上記の記事から一部抜粋します。
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「境界線とは」という記事で、
一人一人が自分の部屋を持っている
とイメージしてくださいと書きました。
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この部屋というのは、
「自分のことを自分で決める権利」
つまり人権とも言うことができます。
赤ちゃん生まれると、
赤ちゃんの「自分のことを自分で決める権利」は
保護者が一度預かります。
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子どもが成長するにつれ、
保護者は、少しずつ「自分のことを自分で決める権利」を
子どもに渡していきます。
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だんだん渡していき…
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あるとき、保護者は、子どもの
「自分のことを自分で決める権利」を
全部子どもに渡します。
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私は、この過程こそが子育てであると
考えています。
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ところが…
いつまでも、子どもの「自分のことを自分で決める権利」を
手放さず、持ち続ける大人がいます。
*****ここまで
つまり、「自分のことを自分で決める権利」が言葉を変えると、「生殺与奪の権利」になると考えています。
最後の文章で、その権利を手放さず、持ち続ける大人というのは、一番最初に書いた
>生殺与奪の権利を“自分が”握っていることに悦びを感じるまたは気持ちいいと思う、
から手放したくないのだと私は思いました。それほどに絶大な権力として受け止められると思うからです。
そして、普通?に生きてきたらそういった大きな権力に触れることはほとんどないと思うので、つい嬉しくなってしまったり?したのかなぁと考えたりしました。
自分の中の幼い頃にあった殺されると思うくらいの恐怖は、この「生殺与奪」の恐怖から来ているのかもしれないと考えました。
とりあえず苦しくなってきたので、今回はこの辺で。
終わり。