現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

【閲覧注意】性欲の意味が限定されすぎなのでは?と思った話

ごきげんよう、ゆえのです。

読んで頂いてありがとうございます。

 

なんか数日前に、また米津さんの新曲がFF16のテーマソングとして作られたというニュースがありましたが、全容がまだ分からないのでとりあえず横に置いておきます。

 

で、題名の「性欲の意味が限定されすぎなのでは?と思った話」を書いていきます。現代で性欲の意味を調べると「肉体的な性的行為を求める欲望のこと」になりますが、なんか色々見聞きしていて…この意味ってすごく限定的なのではないかな?と考えたりしました。

 

結論から先に書くと、性欲の本来の意味は、男として生きたい、女として生きたいと願う欲なのではないかな?と思ったりしました。性はざっくり言うと、男性と女性の二つしかない訳ですが(LGBTQ+の人たちのことはとりあえず置いておきます)上の限定的な意味だと書いたことも男性の肉体、女性の肉体を持っていなければそもそもできないことなので。

 

性って何だろう?ということや何で男性と女性の二つしかないんだろう?何でそれで別れているんだろう?とか考えると、ほぼ生殖のためだと言えると思うので、「肉体的な性的行為を求める欲望のこと」のいうある意味結論になってくるのではないかなと思ったのですが。

 

でも、性欲のことを単にセックス欲としてしか見ないと「性欲」は幼児期くらいの子供にもあるということの説明がつかないなと思いまして「男として生きたい、女として生きたいと願う欲」と言う風に見れば少しは説明がつくかなと考えたりしました。

 

あともう一つこういう考えに至った理由として、下記のページを

この命題は可逆的にもまた正しく(2) - 宮澤賢治の詩の世界

抜き書きーーーーーー

これ以前の賢治は、「いとしくおもふもの=トシ」が、「そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」の苦痛に耐えかねて、あちこちでトシに呼びかけたり、トシとの「通信」を試みたり、翌夏にはその行方を追うようにサハリンまで旅をしたりしました。
 しかし、これらの試みの結果は空しく終わり、賢治の孤独は癒されませんでした。ところが、「薤露青」のこの箇所においては、「どこへ行ってしまったかわからないこと」が、それまでとは逆に、「なんといふいゝ(良い)ことだらう」と認識されるという、価値の転倒が行われているのです。

*****

ずっとトシという一人の魂に固執しつづけ、その行方をいつまでも追い求めようとした賢治の行動の動因は、上に1→2→3として要約した系列の中では、2「恋愛」に相当します。もっとも、賢治とトシの場合は「兄妹愛」であって、一般的な意味での「恋愛」とは異なりますが、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という、この箇所の定義には合致しています。(以前、「オホーツク行という「実験」」という記事では、賢治はトシとともに「死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」と常々考えていたということについて書きました。)
 ですから、ここでは「恋愛」を広義に解釈して、賢治がトシに示したような「個別的な愛」を含むものと理解しておきましょう。
 さて、小岩井農場の命題によれば、一人の人と「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」という方向でいくら努力をしても、そこには避けられない限界が存在します。この限界にぶつかっても、それでも強引に人を衝き進めようとする傾向として現れるのが、3の「性欲」でした。
 つまり、人間は往々にして、2→3の方向へと堕落してしまうというのが、ここでの賢治の考えです。

 

 これに対して、「薤露青」の草稿第一形態で示されている論理は、逆の方向性を指し示しています。
 すなわち、「いとしくおもふもの」が、その死によって「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」状態になってしまうということは、確かに上記の命題の2にあるように、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」とする願望が、挫折させられることまさにそのものです。もとの命題では、そうなると 3の方向への頽落が起こったのですが、しかし「薤露青」第一形態では、むしろそのことのおかげで、「ほんたうのさいはひはひとびとにくる」と言うのです。これは、命題における1「至上福祉」に相当する状態です。
 つまりここでは、2→1という方向へと、逆の向きへの進展が起こるというのです。

ーーーーーーここまで

>つまり、人間は往々にして、2(恋愛)→3(性欲)の方向へと堕落してしまうというのが、ここでの賢治の考えです。

>つまりここでは、2(恋愛)→1(至上福祉)という方向へと、逆の向きへの進展が起こるというのです。

 

この辺りを読んでいて、3(性欲)→2(恋愛)がないのは何故なの?という疑問が湧いてきたんですよね。

ここからは完全に邪推でしかない気もしますが、上で私が考えた性欲の解釈で考えて書くと、宮沢賢治(敬称略)はトシのことを“男として”愛していたことを自覚したが、その対象が亡くなっている「どこへ行ってしまったかわからないこと」でその欲望を達成させることができないことが“良かった”のではないかということを考えました。

 

占星術の話で恐縮ですが、こちらのページも読んだことがあって、

きらきら星をつかまえて: ハーモニック図について ~内面の動機と衝動

宮沢賢治ホロスコープから見る内面の動機と衝動について解説されているのですが、

抜き書きーーーーーー

その傾向は乙女座金星が双子座海王星冥王星とそれぞれスクエアを形成しているところにも表れているのかもしれません。
圧倒的な愛情の深さと強さ、見返りを求めず与え続ける自己犠牲的な博愛精神を持ちながらも、「肉の匂い」をブロックしてしまう潔癖な一面が乙女座金星にはあるのです。
春画を大量に収集していたことでも知られている賢治ですが、そういったどうしようもない「ナマ」の感覚との矛盾とせめぎ合いが常にあったのだと推察できます。

ーーーーーーここまで

という観点から見てみても、結構的を得ているのかもということを思ったりしました。完全に邪推ですが。

取り止めもなく書きましたが。

終わり。