現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

「鋼の錬金術師」から映画「君の名は。」で変わってしまったこと

*12/25、色々修正

 

米津玄師「Lemon」に引き続き今さら感満載ですが、今回は「鋼の錬金術師」から映画「君の名は。」で変わってしまったこと、を書きます。

 

双方の簡単な詳細をWikipediaから抜き書きします。

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鋼の錬金術師』(はがねのれんきんじゅつし)は、荒川弘による日本の漫画作品。また、それを原作とした派生作品。『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス[注 1])にて、2001年8月号から2010年7月号まで連載された。全108話。同年10月号には番外編が掲載された。略称は、『ハガレン』等。

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君の名は。』(きみのなは、英題:Your Name.)は、2016年に公開された新海誠監督による日本の長編アニメーション映画[8]である。キャッチコピーは「まだ会ったことのない君を、探している」。

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連載&公開が結構前なので、ネタバレ等には一切考慮しておりません。ご了承ください。

 

 

先に結論を言いますと、変わってしまったこととは「神々への畏怖を軽視したこと」

もっと具体的に言うと、「『神の罰』を軽く見せてしまったことで人々の心にどんな影響を与えたか」ということです。

 

 

どういうことかと言うと、いきなりちょっと難しくなるかもしれないですが、

神々への畏怖または神さまの見方として、現代では、便宜上2つの面があるのではないかと考えました。宗教は抜かして、です。


生死という事物の間にある法則的な連関=生死の理、人智を超えたものを考えるための「孝具」としての神さま。
もう1つは、生死の理を超越した存在としての存在感の役割を担っている「超越者」としての神さま、の二面性です。


神のみぞ知る、とかそういった言葉でも言いあらわせるかと思います。

 

 

昨今、数々の映画やマンガや作り物の世界の中で、人が人を蘇らせることや復活させようとする、そのことに対して大きな代償を払わなくてはいけない、それが人が超えてはいけない境界線を越えようとした、神からの罰である、という理論が成り立ってきた。と思うのです。

 

君の名は。」を映画の、例えばカテゴリ別に分けるとすると、時間干渉(タイムトラベル)+生き返りもの、だと思うので、時間干渉の事例も上げています。(主人公がヒロインを助けるために神の力を借りて3年前に時間を遡るため)
男女入れ替わりものでもあるけど。

 

あまり数多く知っているわけではないのですが、
タイムトラベルものでは「バックトウーザフューチャー2」主人公が過去に飛んで、自分の父と母の出会いを邪魔したために自分が消えそうになったり、歴史を変えることによって何かしかの不都合が生じたり、色々描かれてきたと思います。

 

生き返りものでは、ゾンビとか、同じようなアニメ系列で言うと「鋼の錬金術師」が、最近では一番人が人を蘇らせようとするには大きな代償を払わなくてはいけないことを明確に描いています。

 

幼い兄弟が亡くなってしまった大好きな母親を蘇らせようと、錬金術の最大の禁忌である人体錬成をしたことにより失敗して、結果的に兄は左足や右腕を、弟は身体全部を失うが、鉄の鎧に兄が魂を定着させることにより、この世に踏みとどまれた。

その弟の身体や自身の身体を取り戻すために動いていくのが話の軸だからです。

 

 

なので、米津玄師「Lemon」の記事でもかきましたが

「生死の理(ことわり)・死んだ人は蘇らない」それを越えようとする者には神からの罰が下る、という理論が成り立つと思います。

 

 

でも映画「君の名は。」にはそれが成り立ちません。

 

ない訳ではないんだけど、それが「忘れる・忘れていく」ことであるため「相対的」に軽く感じてしまうのです。

 

作中でも、主人公の男の子が、隕石が落ちてヒロインが亡くなってしまった現地で1日中聞きまくっても、落ちた周辺の風景を誰も覚えていないという描写。
町が隕石で消えてしまったなんていうセンセーショナルな出来事があった場所なのに、誰もそのことを覚えていないという。
現実でいうなら、福島の地震のことを日本の誰も覚えていない、というような異常さです。

 

 

それを如実に表している、主人公の男の子のセリフがあります。

三葉はヒロインの名前です。
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君の名は、三葉!三葉!三葉!三葉!大丈夫、忘れない!

「君の名は」……誰だ?うわあああ!
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その場面を見た時は、正直、コントか?と思えるくらいで笑ってしまいした。真面目な場面なのに。

恐らく、この言葉を重ねることがなんらかのスイッチになっている、ということなんだろうと解釈しました。

 

だから、この映画の題名は『君の名は。』なのではないか?と考えました。監督さんのインタビューとか全然読んでないので分かりませんが。

 


そして、「忘れる・忘れていく」ことが代償であるというのが軽すぎると思える、もう一つの側面は、人は忘れる生き物だということ。

映画では大切な人を忘れてしまう哀しさを描いていて、現実でもアルツハイマーなどで大切な人が自分のことを忘れてしまうという悲しみ、と共通のものがあるとは思います。

でも、忘れることなど日常茶飯事な側面もある。

 

どちらが良い悪いということではなくて、よりリアリティを持って観る人が多いのはどちらか?という話です。

 


だからこれを見た人は、無意識の所ではこう思ったんじゃないかと思うんですよ。

「なんだ、(復活を願う代償は、神の罰は)こんなものか」と。

 

 

こう思うことが何を意味するのか、というと、
神さまへの軽視とともにその次元領域である生死の理が人の手の届くところまで降りてきた、と錯覚する。のではないかと私は考えました。

 

もちろんそんなことは全然なくて、映画と同じことを現実で起こせるはずもなく、生死の理は変わらず前と同じ高さにある。

でもその高さに、生死の理の理論を支える役割を担ってきた神さまはもういない。

 

人々の心の奥底にある、神々の威光と生死の理との繋がりを壊すような、そんな役割を果たした映画だなと思いました。

 

 

だから、その生死の理を支えるものが必要になる。それが「哲学」であれば理想的なのではないかと思いますが、そこまでスムーズに行ける人は、あまり数多くないのではないか?とも思うのです。
多くの人は、錯覚したところで止まったままになってしまうのでないか、と。

無意識のうちに、という所が怖いですね。

 

 

「哲学」と一言で言っても、

世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。と

自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。の

二つの側面があるんですよね。

 

前者はなかなか難しく馴染みがない人も多いと思うし、後者もよほど強烈な体験をしてそれを昇華していけるくらい、ある意味強いメンタルがある人でなければ、なかなか難しいです。

てもやる価値はあると思います。

 

 

映画「君の名は。」が大ヒットした要因は、東日本大震災と重なる部分が多く見られたからだと私は考えています。

身近に亡くなった方がいる人は自分の体験を映画に重ねたのではないでしょうか。

そして映画みたいに助けて、復活を願った代償として、双方がお互いに相手のことを忘れてしまったのだとしても、「生きていて欲しい」と、そう願う気持ちがあったから、感動を呼び大ヒットをしたのだと思います。

 

それが、生死の理を軽視するような事態に繋がってしまっているのはなんとも皮肉ですが。

 

 

ここ近年、これまでには考えられないような事件を時々耳にします。最近では、赤ん坊を抱いている母親の、抱っこ紐の背中の留め具を外すとか。

ちょっと考えれば、そんなことをしてその母親の対処が遅れた場合どうなるかなんてわかるじゃないですか。イタズラとしても悪質過ぎるし、人の命をも軽視しているとしか思えないような事件だなと思います。

 

2017年12月に「鋼の錬金術師」が実写化されましたが、再び注目されることで、私には揺り戻しが来たかのように思えました。あまり功は為さなかったみたいですけど。

 

生死の理を支える「哲学」になるようなものが、人々の心に根付いていけばいいなと願います。