現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

まとめ:境界線の言葉の2つの違いについて

2/4、一言だけ追加。

 

ちょっと間が空いてしまいましたが、2月になったので心機一転して書いていきます。

 

前々回の記事で、2つの境界線の言葉の違いについて、自分の経験したこととかウェブの話題になっていたことで検証してみました。

今回はそのまとめです。

 

RCメソッドで教わった、決定権の範囲を示す境界線=自由の境界線。

(テキストを読み直していたら、人間関係の境界線、という意味もあった)

スカイさんのブログで目にする、自他の境界線、という言葉。

 

その言葉が気になっていて、自由の境界線の前身、なのかな?と仮説を立てました。

 

前身の意味は、

1 その人の以前の身分・職業。また、団体・組織などの、現在のようになる前の形。「気象庁の前身は中央気象台である」⇔後身。
2 この世に生まれ出る前の身。前世の身。⇔後身。

で、この場合で言っているのは、1の意味です。

 

結論は、違いました。

 

心の境界線は1つです。

2つの境界線の言葉の違いは、外から見るか内から見るか、という視点の置きどころの違いでした。

 

自他の境界線を意識したことで出てきた言葉「権利」は、人が持っている決定権を外から見て、その決定権の行使によって得られる利益、のことを指すのだと思いました。

 

対して、自由の境界線は内から見たもので、その決定権を行使するかしないか、行使によって得をするか損をするかを自分で選ぶことができる、「自由」のことです。

 

 

つまり「自由」は境界線の外から見たら「権利」になり、それによって得をする得られる結果がある、ということが「自由に憧れる」という現象を生み出すのかな、と思いました。

スゴイ身もふたもないですが。

 

そして「権利」は境界線の内側から見たら「自由」になり、決定権を行使するかしないか、行使したことで得をするか損をするかを自分で選ぶことができる、という「選択」になると言うことができるかなと思いました。

そこまでの自由を手に入れるには、RCメソッドで心を整えることが肝要になってきますが。

 

凄い抽象的な分野に入ってくるものを言葉にするのは大変ですけど、今の時点で言えるのはこれが精一杯だなと思いました。

 

 

とはいっても、ここまで言語化させるって多分発達障害ASDならではのこだわり?、なんだろうなぁと思いまして、やっぱり私は発達障害なんだろうなぁという自覚が出てきました。

 

もぉぉぉ〜スカイさんのブログが分かりみが過ぎて…、長所の部分と短所の部分をしっかり把握していこうと思います。