現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

命の価値と行動の価値の分離

 RCメソッドでは、ニュートラルな価値観として

Haveの価値観、Doの価値観、Beの価値観の他にも

命の価値と行動の価値の分離を行うことが重要になります。

 

万紀子さんのブログでそのことが書いてあるのはこちらの記事です。

 

ameblo.jp

 

今のこの世界で普通に生きてきたら、

人の命、存在の価値=行動、成果

という価値観になっている可能性は高いのではないかと私は思います。

中にはそうでもない人がいるかもしれませんが、私の周りではそういう人が多かったです。

 

 

他にも分かりやすい(かもしれない)例を挙げると、憧れている尊敬している誰かになりたいけど私にはこの人みたいになることは出来ない、と嘆く例でしょうか。

 

実際に、スピ某所で遥か昔に聞いた話ですが。

スピ某所の上の人(って言い方もあれかもしれないけど)には、昔Rさんという女性の方が居て、スピリチュアルなことが言える自分の言葉を持っていて、パワーストーンも扱っていたのでその石たちを自在に操れたりする(若干結構濁して書いてますが)とにかく、憧れるような尊敬されるような癒しの人でした。

 

そのお客さんが「私はRさんのようにはなれない」と泣いてしまったということを聞きました。そして、Rさんは「私みたいになれるわけないでしょー」と言って、そうなる必要はどこにも無いとあなたはあなたのままで良い、ということを伝えたようなんですが、泣いてしまった彼女が納得したかどうかは私には分かりませんでした。

 

この価値観を初めて聞いてから、上記の話が頭から離れなくて、結局これが命の価値と行動の価値の分離が出来ていない状態なんだろうなぁって思ったんですよね。

 

つまり泣いてしまった彼女は、Rさんと同じことが出来ないと私には存在している価値もないと思っている、ということなんですよね。

もっと言うと、Rさんと同じことが出来ないと私の命の価値はRさんより低くなってしまう、と思っていると。ちょっと意地悪な言い方かもしれないですが。

 

なので、命の価値と行動の価値を分けた場合、もしRさんが「私と同じことが出来なくても、あなたの命の価値と私の命の価値は変わりませんよ」ってことを伝えたとして、泣いてしまった彼女がホントにそれを理解したとしたら、その人は本当にRさんと同じことが出来るようになりたい、と思うだろうか?と考えたりしてました。

それはちょっと違うんじゃないかな〜って思ったりもしました。実際にはもう分かりませんが。

 

 

あと、この価値の分離を聞いた時、命の価値があるなら行動しなくてもいいんじゃない?って無意識に思ってしまったみたいで、確認のために「命の価値があることが行動しなくてもいいという免罪符にはならないですよね?」ということをカウンセリングで聞いたりもしましたね。

 

何もしないことに価値がある、ように思っている節も私にはあるみたいです。

 

 

それからは、ダメな自分を見る度に「それでも私の命の価値は尊い、行動の価値はダメダメだけど」と唱えたりして、少し浸透できた感じがしてきたら、

今度は、命の価値が皆んな一律に同じで尊い、なんてイヤだ!私だけ特別に高ければ良いのに!という欲?も出てきたりしました。

それはムリ!ということを自分で自分に言い聞かせて収まりましたが。

 

命の価値を認める=自己肯定=「愛されるべき良い存在」として

自分を認識するには、今はまだまだ紆余曲折は続きそうです。