現実と幻想のはざま(三改)

日々の中で色々刺激を受けて思ったことや感じたことなどを書いています。あと米津玄師の楽曲MVの解釈と考察など。

12、斜線を引く

ゆえのです。

いつも読んで頂いてありがとうございます。

 

久し振りにスピ某所で教えてもらった文章を紹介します。

不定期に、文章や本などを差し障りのない範囲で紹介していっています。

 

今回は「斜線を引く」ということ。

斜線とは、またMLからの引用ですが、以下の意味になります。

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2013/03頃

似て非なるものとはよく聞く言葉ですが、反対に、「斜線」と
は非なるもののアイダに引かれた線のことです。

ここにも能動的な全面受容と判断留保が息づいています。

 

抜き書きーーーー

2014/06頃

「斜線を引く」から「美の希求を信念化する」を考えてみましょう。

「斜線を引く」って?

それはある概念の中から未発見を掘り出すこと、そのために補助線を引くようなこと、異なる概念に同じ構造を発見すること(一事が万事)、異なる概念を統合して拡張することetc.……そういうことじゃありません。これらは「斜線」「斜線を見つける」であって「斜線を引く」ことではないのです。

かつて湯川秀樹さんが「科学とは何をもって何とみなすかということ」と云われたそうです。これは「斜線を引く」に少し近いと思います。「何をもって」にも「何とみなす」にもそこには湯川秀樹個人がいなければならないからです。

従来の科学的態度は、そこに湯川秀樹個人がいようがいまいが変わらないものを求めることでしたから、この世界的な理論物理学者の言葉は以外にも科学的態度とは相容れないところがあるのですが、その独特の湯川流科学的態度こそが世界に特筆される科学者の真髄であったことはとても興味深いことです。

創造は相反性による。創造はパラドックスによる。ぶつからなければ何も創造されることはない。

複数の異なる概念をぶつけて何かが創造されるとき、まず、どのような概念を選択してどのようにぶつければいいのかという「勘」のようなものが先行しているはずです。その「勘」のようなものを「斜線を引く」というのです。

あくまでも、それは「斜線」ではなく「斜線を引く」でなくてはならない。だから、「(そこに湯川さんが入った)何をもって何とみなすかということ」には「斜線を引く」意思が感じられる。それは創造への意思であり、湯川さんはそれを科学としました。

創造に先行する「勘」のようなもの、それが「斜線を引く」ということだったら、その創造的な「勘」の正体についても触れておく必要があるでしょうね。

その創造的「勘」を一言で云えば「信念」。

なんだか話がぐるぐるし始めましたが、だったら「信念」って何? それは例えばこういうこと。

湯川さんがある事象についてたとえ真逆のことを言っているように聞こえる時も、その思考を望遠鏡で見たり顕微鏡で見るとそこに同じ姿が見えること。「(そこに湯川さんが入った)何をもって何とみなすかということ」が金太郎アメのようになっていること。湯川さんをどこから見てもそこに「フラクタル」が在ること。その「金太郎アメ」や「フラクタル」を「信念」と云うのです。

別の言い方をすれば、よくビジネスで使われる「あのひとはブレない」ということを、フラクタル次元化すると「信念」になる。自己の方向性(ベクトル)をフラクタル次元化すれば「信念」になる!

「斜線を引く」という能動(アクティビティ)は、相反性衝突による創造に先行する。そして「斜線を引く」にはそこにフラクタル(=信念)が要る。

フラクタルが無ければそれを信念と呼ぶことはできない。それは信念ではなく、美が損なわれている状態だ。際限のない美の裏側には必ず美の欠如があるけれど、ここで損なわれているというのはその欠如のことではない。損なわれているがゆえに信念になり得ない、そういう欠損のことです。

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「斜線を引く」ことが難しいと感じているひとが多いようです。しかし自分が金太郎アメのようになれば「斜線を引く」ことはそんなに難しくはありません。

ビジネスなんかでノウハウ1、ノウハウ2、ノウハウ3……と、どれだけノウハウを集めてもそれぞれがバラバラで無関係になっていてちょっと引いて眺めたときに有機的な繋がりを形成しない。それではちっとも総合力が身につかないから、結局ピンとこない(T-T)

企業の大小にかかわらずどこにでもある話です。だけど、先に信念化が起こっていればそんなことにはなりませんよね。信念化によってノウハウを集めれば自然に繋がるノウハウが勝手に集まってしまうからです。

岡潔さんは「成熟は遅ければ遅いほどいい」と云った。ひとの成熟には小さな信念化→小さなノウハウ化の繰り返しが必要なんだから当然成長には時間が掛かる、その時間が一生ということだったら丁度いいんだよ、ということです。

この順序が逆で何の信念化も起こしていないのに、先にノウハウを集めようとするから認知症的ビジネスとかおかしなことになるのです。

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「美の希求を信念化する」をちょっとだけ分解してまとめなおせば、

〈斜線を引く=創造的勘=フラクタル(相似)性=信念化〉→〈より美しい創造(より大きく・広く・深い相反性衝突)〉

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「より美しい創造」に先行するのは「美の希求」という「信念」。
これは、
「より大きく・広く・深い相反性衝突」に先行するのは「美の希求」という「フラクタル(=相似)」に等しい。

> 「より美しく、もっともっと美しく!」はバカの一つ覚えでいい。

どこを切っても金太郎アメのように「より美しく、もっともっと美しく行く!」になっている、遠くに見ても近くに寄って見ても「より美しく、もっともっと美しく行く!」になっている。その「フラクタル(=相似)」によって「より大きく・広く・深い相反性衝突」は担保され、一方では世界進化が無茶苦茶にならないようにセーフティ機構として機能する。

だから、いつも心に「より美しく、もっともっと美しく行く!」と響いていることを目指せばいい。ぶつぶつ呟き続ければいい。結局、バカの一つ覚えがいちばん上等なんだ。

ぶつぶつぶつぶつ……(^^)

ーーーーーーここまで

「より美しく、もっともっと美しく行く!」と唱える際にちょっと注意が必要だと感じています。

もう確かめようもないので、MLにいたとき、他の人たちはどうだったのかは知りませんが、私の場合は、唱えていると気持ち良くなってきてしまうというか、変に気が大きくなるような、地面に足がつかなくなってきてしまうような感覚を覚えていました。

MLにいたときは特に投稿することはなく、結局言わずに終わりましたが。

なので“冷静に”という言葉を入れて唱えるようにしています。

より美しく“冷静に”、もっともっと美しく“冷静に”行く、という具合です。

 

もしこういう風に使っていく上で、不具合等が生じましても私個人としては責任は取れませんので、使ったり唱えたりする際は、自己責任でお願いします。

終わり。